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投稿

松林図屏風(1593年~1595年)

松林図をめぐる諸説 試しに継ぎ目を元の状態に戻すと、左隻の右1扇目上部の山から緩やかな三角形をえがいた安定のよい構図にまとまる。更に、左隻3、4扇目やや下の斜めに傷のように走る線がほぼ繋がるようになり、ちょうど対辺延長上の両端に落款が押されている。しかし今度は、左隻下の地面を表す薄墨が大きくずれ、現状の作品がもつリズム感が失われてしまう。また、この落款は基準印と異なる事から、後に押された可能性が高い。これを説明するため、元々この間に現在は失われた1、2扇があったとする案や、元は屏風の左右が逆で、左隻左端中程にわずかに覗く枝の先端部が右隻右端の松の延長部分とする仮説などが提出されている。
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学問のすすめ(1872年~1876年)

初編 自由・独立・平等の、それまでの日本人が知らなかった3つの価値観が新時代の社会を支配することを宣言する。新時代における身分は生まれではなく、学問を通じた個人の見識により決定することを述べ、権威への服従を中心的価値観とする封建社会への民衆像を否定し、近代国家の市民への意識転換を促す。

廃藩置県(1871年)

背景 1868年1月3日に勃発した王政復古の政変は、事実上の中央政府が江戸幕府から朝廷へ移っただけに過ぎず、新政府内部の中央集権化を進めようとする勢力にとっては各地に未だ残る大名領の存在をどうするかが問題であった。

日露和親条約(1855年)

条約締結に至る経緯 1852年、ニコライ1世はアメリカがペリー艦隊を日本に派遣するとの情報に接し、かねて日本沿海への進出を図っていたので、ただちにプチャーチン提督を派遣することとした。ロシアとしてはラクスマン、レザノフに続く三度目の派遣である。プチャーチンは1852年に10月イギリス・ポーツマスを出航、喜望峰回りで1853年8月、長崎に到着した。ペリーの浦賀到着に遅れること約1ヶ月であった。1854年1月から長崎で交渉が始まったが、おりからクリミア戦争に突入し、ロシアは英仏と敵対関係となったため危険となり、いったん長崎を退去した。しかし同1854年3月に日米和親条約が成立したことを知ったプチャーチンは再び幕府に迫り、12月から下田で幕府の川路聖謨とプチャーチンの間で交渉が行われ、1855年2月に日露和親条約を調印した。なおこの交渉中に安政大地震が起こり下田にも津波があったためロシア船ディアナ号が破損、日本側協力して戸田港で新たに「戸田号」を建造し、プチャーチンらはそれで帰国した。

天保の改革(1841年~1843年)

概要 1837年、将軍徳川家斉は西丸で退隠し大御所となり、家慶が将軍職となる、老中首座の水野忠邦は1838年には農村復興を目的とした人返令や奢侈禁止を諮問しているが、大奥や若年寄の林忠英、水野忠篤、美濃部茂育ら西丸派による反対を受け、水戸藩主徳川斉昭による後援も得たが、幕政改革は抵抗を受けていた。

禁中並公家諸法度(1615年)

概要 禁中並公家諸法度は、徳川家康が金地院崇伝に命じて起草させた法度である。豊臣氏滅亡の1615年9月9日、二条城において大御所・徳川家康、二代将軍・徳川秀忠、元関白・二条昭実の3名の連署をもって公布された。署名は、二条昭実、秀忠、家康の順である。漢文体、全17条。発布されたときは「公家諸法度」であったが17世紀末に語頭に「禁中並」が加えられた。呼称を変更したのみで内容の変更はされておらず、その内容は江戸幕府終焉まで変わらなかった。これは何度も改定が行われた武家諸法度とは対照的である。

サン・バルテルミの虐殺(1572年)

事件の経過~ユグノー戦争のその後~ ブルボン家のアンリは捕らえられて宮中に幽閉され、1576年に脱出し、さらにしばらく新教徒を率いて戦い、1589年にヴァロワ朝が途絶えたことによりアンリ4世として即位しブルボン朝を開いた。1593年にカトリックに改宗したうえで翌年パリに入城し、1598年にナントの王令で新教の信仰を認めてユグノー戦争を終わらせた。