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禁中並公家諸法度(1615年)

概要
禁中並公家諸法度は、徳川家康が金地院崇伝に命じて起草させた法度である。豊臣氏滅亡の1615年9月9日、二条城において大御所・徳川家康、二代将軍・徳川秀忠、元関白・二条昭実の3名の連署をもって公布された。署名は、二条昭実、秀忠、家康の順である。漢文体、全17条。発布されたときは「公家諸法度」であったが17世紀末に語頭に「禁中並」が加えられた。呼称を変更したのみで内容の変更はされておらず、その内容は江戸幕府終焉まで変わらなかった。これは何度も改定が行われた武家諸法度とは対照的である。

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