サン・バルテルミの虐殺(1572年) 7月 21, 2022 事件の経過~ユグノー戦争のその後~ ブルボン家のアンリは捕らえられて宮中に幽閉され、1576年に脱出し、さらにしばらく新教徒を率いて戦い、1589年にヴァロワ朝が途絶えたことによりアンリ4世として即位しブルボン朝を開いた。1593年にカトリックに改宗したうえで翌年パリに入城し、1598年にナントの王令で新教の信仰を認めてユグノー戦争を終わらせた。 続きを読む
鉄血演説(1862年) 7月 21, 2022 ビスマルクの演説 ビスマルクは1862年9月30日にドイツ帝国議会で演説を行った。当時議会は政府・陸軍の進める軍制改革に対して進歩党などの自由主義者が反対し、予算案は議会を通過できなかった。そこでビスマルクは「現下の大問題は言論や多数決――これが1848年、49年の大きな間違いであった――によってではなく、鉄と血によってのみ解決される」と演説し、「鉄血宰相」のあだ名が付いた。そして議会で予算が不成立でも、国家活動は一刻も停止できない以上、政府は予算なしでも執政権を行使しなければならない、という「隙間論」で乗り切った。 続きを読む
デカブリストの乱(1825年) 7月 21, 2022 ニコライ1世の即位の時の反乱起こる 1825年12月14日に皇帝アレクサンドル1世が急逝し、ニコライ1世が即位することとなった。青年将校たちはチャンスが到来したと考え、反乱を起こした。しかし反乱は軍隊の一部に止まり、民衆的な広がりはなかった。不穏な動きを察知した政府はただちに反撃し、政府軍が反乱を鎮圧、首謀者は逮捕されて、いずれも絞首刑となった。さらに事件に関係があるとされて500人以上が逮捕された。事件の起こった12月をロシア語でデカーブリというので、この事件に参加した人々はデカブリストと呼ばれることになった。 続きを読む
瓢鮎図(1415年) 7月 15, 2022 解説 ひょうたんでナマズを押さえるという禅の公案を描いた、1415年以前の作。室町幕府将軍足利義持の命により制作された。京都市の妙心寺塔頭・退蔵院の所蔵。国宝。画面上半には、大岳周崇の序と玉畹梵芳など31人の禅僧による画賛がある。 続きを読む
新古今和歌集(1205年) 7月 15, 2022 成立 平安時代末期、宮中歌壇では和歌を業とする家として六条家と御子左家が対立していたが、1177年に六条家の代表というべき藤原清輔が死去すると、御子左家の当主たる藤原俊成が歌人として重んじられるようになり、第七番目の勅撰和歌集『千載和歌集』を撰進するにいたった。さらに後鳥羽院が即位すると、俊成は宮中の主要な和歌の行事に息子の藤原定家を参加させるなど、御子左家の勢力拡大に努めた。『新古今和歌集』の編纂が始まったのは、和歌に格別の関心を寄せる後鳥羽院が譲位し、宮中歌壇における御子左家の地位がおおむね固まった時期であった。 続きを読む
平安京(794年~1869年) 7月 15, 2022 建造地の選定、範囲、都市計画 新都建設地の選定にひそかに入った桓武天皇は、792年1月そして5月、狩猟をよそおって、候補地のひとつ山背国葛野郡宇太村を訪れた。さらに翌793年には、大納言の藤原小黒麻呂や左大弁の紀古佐美らも派遣し同地を確認・検討させた。その結果ここが建設地と決まり、新都市建設計画。遷都計画が動き出し、と同時に長岡京の取り壊しが始まった。 続きを読む
平城京(710年) 7月 04, 2022 都市計画~平城京の建物~ 平城宮は朱雀大路の北端に位置し、そこに朱雀門が設置された。平城宮は平城京造営当初から同じ位置に存在した。その中心建物で、朱雀門の北にあった大極殿は740年の恭仁京遷都の際に取り壊され、745年の平城京遷都後に旧位置の東側に再建された。朱雀大路の南端には羅城門があり、九条大路の南辺には京を取り囲む羅城があった。ただし、実際には羅城は羅城門に接続する極一部しか築かれなかったのではないかとする説が有力である。 続きを読む
十七条憲法(604年) 7月 04, 2022 概要 憲法の名を冠しているが、政府と国民の関係を規律する後年の近代憲法とは異なり、その内容は官僚や貴族に対する道徳的な規範が示されており、行政法としての性格が強い。思想的には儒教を中心とし、仏教や法家の要素も織り交ぜられている。 続きを読む
土偶(縄文時代頃) 7月 04, 2022 出現~発生期の土偶~ 現在知られている限りで日本最古の土偶は、三重県で2箇、滋賀県で1箇が出土した縄文時代草創期後半のもの、すなわち、粥見井尻土偶と相谷土偶である。いずれも小形で、やや厚みのある板状、頭と両腕を突起で表現しており、顔や手足の表現を欠くが、乳房は明瞭に表現されている。 続きを読む