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新古今和歌集(1205年)

成立
平安時代末期、宮中歌壇では和歌を業とする家として六条家と御子左家が対立していたが、1177年に六条家の代表というべき藤原清輔が死去すると、御子左家の当主たる藤原俊成が歌人として重んじられるようになり、第七番目の勅撰和歌集『千載和歌集』を撰進するにいたった。さらに後鳥羽院が即位すると、俊成は宮中の主要な和歌の行事に息子の藤原定家を参加させるなど、御子左家の勢力拡大に努めた。『新古今和歌集』の編纂が始まったのは、和歌に格別の関心を寄せる後鳥羽院が譲位し、宮中歌壇における御子左家の地位がおおむね固まった時期であった。

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