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宇治拾遺物語(1212年~1221年)

児のそら寝
今は昔、比叡の山に児ありけり。増たち、宵のつれづれに、「いざ、かいもちひせむ」と言ひけるを、この児、心寄せに聞きけり。さりとて、しいださむを待ちて寝ざらむも、わろかりなむと思ひて、片方に寄りて、寝たりよしにて、いでくるを待ちけるに、すでにしいだしたるさまにて、ひしめき合ひたり。この児、さだめて驚かさむずらむと、待ちゐたるに、僧の、「もの申しさぶらはむ。驚かせたまへ」と言ふを、うれしとは思へども、ただ一度にいらへむも、待ちけるかともぞ思ふとて、今ひと声呼ばれていらへむと、念じて寝たるほどに、「や、な起こしたてまつりそ。幼き人は寝入りたまひにけり」と言ふ声のしければ、あな、わびしと思ひて、今一度起こせかしと、思ひ寝に聞けば、ひしひしとただ食ひに食ふ音のしければ、すべなくて、無期のうちに、「えい」といらへたりければ、僧たち笑ふこと限りなし。

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松林図をめぐる諸説 試しに継ぎ目を元の状態に戻すと、左隻の右1扇目上部の山から緩やかな三角形をえがいた安定のよい構図にまとまる。更に、左隻3、4扇目やや下の斜めに傷のように走る線がほぼ繋がるようになり、ちょうど対辺延長上の両端に落款が押されている。しかし今度は、左隻下の地面を表す薄墨が大きくずれ、現状の作品がもつリズム感が失われてしまう。また、この落款は基準印と異なる事から、後に押された可能性が高い。これを説明するため、元々この間に現在は失われた1、2扇があったとする案や、元は屏風の左右が逆で、左隻左端中程にわずかに覗く枝の先端部が右隻右端の松の延長部分とする仮説などが提出されている。

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