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太平記(1318年~1368年)

古文~冒頭部分~
落花の雪に踏み迷ふ交野の春の桜狩紅葉の綿を着て帰る嵐の山の秋の夕暮れ一夜を明かすほどだにも旅寝となればものうきに恩絵の契り浅からぬわがふるさとの妻子をば行方もしらず思いおき年久しく住みなれし九重の帝都をば、今を限りとかえりみて思わぬ旅に出でたまう心の中ぞ哀れなる


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松林図屏風(1593年~1595年)

松林図をめぐる諸説 試しに継ぎ目を元の状態に戻すと、左隻の右1扇目上部の山から緩やかな三角形をえがいた安定のよい構図にまとまる。更に、左隻3、4扇目やや下の斜めに傷のように走る線がほぼ繋がるようになり、ちょうど対辺延長上の両端に落款が押されている。しかし今度は、左隻下の地面を表す薄墨が大きくずれ、現状の作品がもつリズム感が失われてしまう。また、この落款は基準印と異なる事から、後に押された可能性が高い。これを説明するため、元々この間に現在は失われた1、2扇があったとする案や、元は屏風の左右が逆で、左隻左端中程にわずかに覗く枝の先端部が右隻右端の松の延長部分とする仮説などが提出されている。

球戯場の誓い(1789年)

憲法制定国民会議に改称 6月23日、三部会にルイ16世が親臨し、いくつかの保留事項以外の一般的利害に関する事項は頭数による投票とする、その他、租税負担の平等、個人の自由、出版の自由、農奴制の消滅などを宣言し、三部会の解散を要求したが、第三身分の議長バイイ、ミラボーらは無視、議場を動かなかった。国王は結局譲歩して特権二身分の第三身分への合流を勧告、三部会は消滅することとなった。その結果、7月9日に、国民議会は憲法制定を任務とした憲法制定国民議会として正式に発足した。

享保の改革(1716年)

幕府権力の確立 吉宗は綱吉以来、譜代から不満を持たれていた側用人を廃止して、表向き老中による幕閣政治に重きを置いたように振舞った。しかし実際は御側御用取次を新設して元紀州藩士をそれに任じて実質上の側近政治を展開した。吉宗は御三家である紀州藩から将軍家を相続する際、多数の紀州藩士の幕臣として編入させていた。その数は1725年には205名にもおよんだ。これは紀州藩上士の約25%に相当する。吉宗は紀州系の側近たちを中心として従来の幕府のしきたりに囚われない大胆な政治改革を断行した。