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応仁の乱(1467年~1477年)

管領細川勝元と畠山義就の対立
翌1455年4月12日に畠山持国は死去し、畠山義就が畠山氏の家督を相続した。義就は弥三郎派の勢力を一掃するため、領国内で活発な弾圧を行った。この最中、義就は義政の上意と称して軍事行動を行ったため、義政の信任を次第に失った。さらに義就は勝元の所領である山城国木津を攻撃、細川勝元は弥三郎を擁立することで義就の追い落としを計画した。一方で山名宗全は、1458年に赦免され、同年に義就と共に八幡神人討伐に参陣した頃から親義就派となっていった。1459年には弥三郎が赦免され、上洛を果たしたがまもなく死去。代わって政長が勝元と弥三郎派の家臣団に擁立された。

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松林図屏風(1593年~1595年)

松林図をめぐる諸説 試しに継ぎ目を元の状態に戻すと、左隻の右1扇目上部の山から緩やかな三角形をえがいた安定のよい構図にまとまる。更に、左隻3、4扇目やや下の斜めに傷のように走る線がほぼ繋がるようになり、ちょうど対辺延長上の両端に落款が押されている。しかし今度は、左隻下の地面を表す薄墨が大きくずれ、現状の作品がもつリズム感が失われてしまう。また、この落款は基準印と異なる事から、後に押された可能性が高い。これを説明するため、元々この間に現在は失われた1、2扇があったとする案や、元は屏風の左右が逆で、左隻左端中程にわずかに覗く枝の先端部が右隻右端の松の延長部分とする仮説などが提出されている。

球戯場の誓い(1789年)

憲法制定国民会議に改称 6月23日、三部会にルイ16世が親臨し、いくつかの保留事項以外の一般的利害に関する事項は頭数による投票とする、その他、租税負担の平等、個人の自由、出版の自由、農奴制の消滅などを宣言し、三部会の解散を要求したが、第三身分の議長バイイ、ミラボーらは無視、議場を動かなかった。国王は結局譲歩して特権二身分の第三身分への合流を勧告、三部会は消滅することとなった。その結果、7月9日に、国民議会は憲法制定を任務とした憲法制定国民議会として正式に発足した。

サン・バルテルミの虐殺(1572年)

事件の経過~ユグノー戦争のその後~ ブルボン家のアンリは捕らえられて宮中に幽閉され、1576年に脱出し、さらにしばらく新教徒を率いて戦い、1589年にヴァロワ朝が途絶えたことによりアンリ4世として即位しブルボン朝を開いた。1593年にカトリックに改宗したうえで翌年パリに入城し、1598年にナントの王令で新教の信仰を認めてユグノー戦争を終わらせた。