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応仁の乱(1467年~1477年)

管領細川勝元と畠山義就の対立
翌1455年4月12日に畠山持国は死去し、畠山義就が畠山氏の家督を相続した。義就は弥三郎派の勢力を一掃するため、領国内で活発な弾圧を行った。この最中、義就は義政の上意と称して軍事行動を行ったため、義政の信任を次第に失った。さらに義就は勝元の所領である山城国木津を攻撃、細川勝元は弥三郎を擁立することで義就の追い落としを計画した。一方で山名宗全は、1458年に赦免され、同年に義就と共に八幡神人討伐に参陣した頃から親義就派となっていった。1459年には弥三郎が赦免され、上洛を果たしたがまもなく死去。代わって政長が勝元と弥三郎派の家臣団に擁立された。

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松林図屏風(1593年~1595年)

松林図をめぐる諸説 試しに継ぎ目を元の状態に戻すと、左隻の右1扇目上部の山から緩やかな三角形をえがいた安定のよい構図にまとまる。更に、左隻3、4扇目やや下の斜めに傷のように走る線がほぼ繋がるようになり、ちょうど対辺延長上の両端に落款が押されている。しかし今度は、左隻下の地面を表す薄墨が大きくずれ、現状の作品がもつリズム感が失われてしまう。また、この落款は基準印と異なる事から、後に押された可能性が高い。これを説明するため、元々この間に現在は失われた1、2扇があったとする案や、元は屏風の左右が逆で、左隻左端中程にわずかに覗く枝の先端部が右隻右端の松の延長部分とする仮説などが提出されている。

応永の乱(1399年)

義満と義弘の対立 1394年義満は将軍職を嫡男の義持に譲り、太政大臣に昇る。もちろん、実権は掌握したままだった。1395年には太政大臣を辞して出家し、道義と称した。諸大名、公家はこぞってこれに追従して出家し、義弘もまた出家した。

天正遣欧少年使節(1582年)

使節団の構成 使節の少年たちは有馬晴信が日野江城下に建てたセミナリヨで学ぶ生徒の中から選ばれた。使節4名の正確な生年月日は不明だが、派遣当時の年齢は13-14歳であった。中浦ジュリアンが最年長、原マルティノが最年少と言われる。