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奥の細道(1702年)

 冒頭~出発まで~
月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋、江上の破屋に蜘蛛の古巣をはらひて、やや年も暮れ、春立てる霞の空に白川の関越えんと、そぞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取るもの手につかず、股引の破れをつづり笠の緒付けかへて、三里に灸すうるより、松島の月まづ心にかかりて、住める方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、草の戸も住み替はる代ぞ雛の家表八句を庵の柱に懸け置く。

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