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日中戦争(1937年~1945年)

北支事変~日本軍の総攻撃~
中国軍は北京・天津の電線切断作戦を展開した。1937年7月25日、郎坊駅で電線を修理した大日本帝国軍が休憩していると中国軍が襲撃した。日本帝国軍は修理した電線で天津の本部と連絡をとり、翌7月26日、日本軍戦闘機が中国人陣地を爆撃し、同地を日本軍が占領。日本帝国軍は宋哲元将軍に、北平城から中国29路軍37師を撤退させることで誠意をみせてほしい、もし要請に応じなければ日本帝国軍は大日本帝国にとって適切な行動をとると最後通告を行ったが、中国側は応じなかった。

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松林図屏風(1593年~1595年)

松林図をめぐる諸説 試しに継ぎ目を元の状態に戻すと、左隻の右1扇目上部の山から緩やかな三角形をえがいた安定のよい構図にまとまる。更に、左隻3、4扇目やや下の斜めに傷のように走る線がほぼ繋がるようになり、ちょうど対辺延長上の両端に落款が押されている。しかし今度は、左隻下の地面を表す薄墨が大きくずれ、現状の作品がもつリズム感が失われてしまう。また、この落款は基準印と異なる事から、後に押された可能性が高い。これを説明するため、元々この間に現在は失われた1、2扇があったとする案や、元は屏風の左右が逆で、左隻左端中程にわずかに覗く枝の先端部が右隻右端の松の延長部分とする仮説などが提出されている。

球戯場の誓い(1789年)

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サン・バルテルミの虐殺(1572年)

事件の経過~ユグノー戦争のその後~ ブルボン家のアンリは捕らえられて宮中に幽閉され、1576年に脱出し、さらにしばらく新教徒を率いて戦い、1589年にヴァロワ朝が途絶えたことによりアンリ4世として即位しブルボン朝を開いた。1593年にカトリックに改宗したうえで翌年パリに入城し、1598年にナントの王令で新教の信仰を認めてユグノー戦争を終わらせた。