スキップしてメイン コンテンツに移動

ペルシア戦争(紀元前499年~紀元前449年)

原因
当時のペルシアは絶頂期にあった。キュロス2世が、紀元前547年に小アジア随一の強国であったリディア王国を併合、ダレイオス1世はトラキア、マケドニア王国を勢力下に置いた。紀元前518年、リディア王国の首都であったサルディスに「サトラップ」と呼ばれる総督を置き、アナトリア半島全域とレスボス島、キオス島、サモス島などのエーゲ海東部の島嶼をその支配下に置いた。ダレイオス1世は政治の力点を経済活動に置き、「王の道」を整備するとともに、金貨を鋳造して交易を積極的に推進した。彼の治世においてペルシアは最盛期を迎え、帝国の領土的野心も膨らんだ。こうした情勢下、ギリシャ本土の諸都市にペルシアの影響が及ぶのは時間の問題だった。

コメント

このブログの人気の投稿

松林図屏風(1593年~1595年)

松林図をめぐる諸説 試しに継ぎ目を元の状態に戻すと、左隻の右1扇目上部の山から緩やかな三角形をえがいた安定のよい構図にまとまる。更に、左隻3、4扇目やや下の斜めに傷のように走る線がほぼ繋がるようになり、ちょうど対辺延長上の両端に落款が押されている。しかし今度は、左隻下の地面を表す薄墨が大きくずれ、現状の作品がもつリズム感が失われてしまう。また、この落款は基準印と異なる事から、後に押された可能性が高い。これを説明するため、元々この間に現在は失われた1、2扇があったとする案や、元は屏風の左右が逆で、左隻左端中程にわずかに覗く枝の先端部が右隻右端の松の延長部分とする仮説などが提出されている。

応永の乱(1399年)

義満と義弘の対立 1394年義満は将軍職を嫡男の義持に譲り、太政大臣に昇る。もちろん、実権は掌握したままだった。1395年には太政大臣を辞して出家し、道義と称した。諸大名、公家はこぞってこれに追従して出家し、義弘もまた出家した。

天正遣欧少年使節(1582年)

使節団の構成 使節の少年たちは有馬晴信が日野江城下に建てたセミナリヨで学ぶ生徒の中から選ばれた。使節4名の正確な生年月日は不明だが、派遣当時の年齢は13-14歳であった。中浦ジュリアンが最年長、原マルティノが最年少と言われる。