スキップしてメイン コンテンツに移動

九州平定(1587年)

豊臣秀吉の九州平定
1587年3月、秀吉は臣従した義久を「一命を捨てて走り入ってきたので赦免する」として、義久には薩摩、義弘は大隅を安堵し、義弘の子島津久保には日向諸県郡のうち真幸院をあたえた。また、5月30日には佐々成政に肥後一国をあたえた。さらに秀吉は同年6月7日、筑前箱崎に陣を構え、博多を直轄都市としたうえで、小早川隆景に筑前・筑後および肥前のうち1郡半の約37万石、黒田孝高には豊前のうち6郡の約12万5,000石、立花統虎には筑後柳川城13万2,000石、毛利勝信には豊前小倉約6万石をそれぞれあたえた。宗麟の子大友義統には豊後一国、日向の伊東祐兵、肥前の龍造寺政家、大村喜前、松浦鎮信、対馬の宗義智には、それぞれ所領を安堵した。これが、「九州国分」と呼ばれる、九州平定事業にともなう知行割りの概略である。

コメント

このブログの人気の投稿

松林図屏風(1593年~1595年)

松林図をめぐる諸説 試しに継ぎ目を元の状態に戻すと、左隻の右1扇目上部の山から緩やかな三角形をえがいた安定のよい構図にまとまる。更に、左隻3、4扇目やや下の斜めに傷のように走る線がほぼ繋がるようになり、ちょうど対辺延長上の両端に落款が押されている。しかし今度は、左隻下の地面を表す薄墨が大きくずれ、現状の作品がもつリズム感が失われてしまう。また、この落款は基準印と異なる事から、後に押された可能性が高い。これを説明するため、元々この間に現在は失われた1、2扇があったとする案や、元は屏風の左右が逆で、左隻左端中程にわずかに覗く枝の先端部が右隻右端の松の延長部分とする仮説などが提出されている。

応永の乱(1399年)

義満と義弘の対立 1394年義満は将軍職を嫡男の義持に譲り、太政大臣に昇る。もちろん、実権は掌握したままだった。1395年には太政大臣を辞して出家し、道義と称した。諸大名、公家はこぞってこれに追従して出家し、義弘もまた出家した。

天正遣欧少年使節(1582年)

使節団の構成 使節の少年たちは有馬晴信が日野江城下に建てたセミナリヨで学ぶ生徒の中から選ばれた。使節4名の正確な生年月日は不明だが、派遣当時の年齢は13-14歳であった。中浦ジュリアンが最年長、原マルティノが最年少と言われる。