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歌舞伎(17世紀)

元禄
次の画期が元禄にあたるとするのが定説である。歌舞伎研究では寛文・延宝頃を最盛期とする歌舞伎を「野郎歌舞伎」と呼称し、この時代の狂言台本は伝わっていないものの、役柄の形成や演技類型の成立、続き狂言の創始や引幕の発生、野郎評判記の出版など、演劇としての飛躍が見られた時代と位置づけられている。この頃には「演劇」といってはばかりのないものになっていた。江戸四座のうち格段に早く成立した猿若勘三郎座を除き、それ以外の三座が安定した興行を行えるようになったのも寛文・延宝のころである。

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球戯場の誓い(1789年)

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