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五品江戸廻送令(1860年)

背景
日米修好通商条約や安政の五カ国条約の締結により、1859年から箱館・横浜・長崎の3港で貿易が開始し、港に居留する外国商人と日本の商人との間で取引が行われるようになった。日本からは主に生糸が輸出されたが、生糸などの輸出品は、国内市場よりも貿易市場の方が高値で取引されていたため、生産地と市場を仲立ちしていた在郷商人は、江戸などの大都市の問屋ではなく、直接、開港場へ生産品を卸すようになった。そのため、江戸の問屋商人を中心とする従来の流通機構が徐々にほころびを見せ始めた。さらに太平天国の乱へイギリス・フランスの介入が本格化すると、本来ならば需要がない筈の雑穀や蝋などの軍需品の輸出の増加も始まった。こうした、急増する輸出需要に対し、生産供給が追いつかず、全般的に物価が高騰するなど、日本経済に大きな混乱が生じていた。

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松林図屏風(1593年~1595年)

松林図をめぐる諸説 試しに継ぎ目を元の状態に戻すと、左隻の右1扇目上部の山から緩やかな三角形をえがいた安定のよい構図にまとまる。更に、左隻3、4扇目やや下の斜めに傷のように走る線がほぼ繋がるようになり、ちょうど対辺延長上の両端に落款が押されている。しかし今度は、左隻下の地面を表す薄墨が大きくずれ、現状の作品がもつリズム感が失われてしまう。また、この落款は基準印と異なる事から、後に押された可能性が高い。これを説明するため、元々この間に現在は失われた1、2扇があったとする案や、元は屏風の左右が逆で、左隻左端中程にわずかに覗く枝の先端部が右隻右端の松の延長部分とする仮説などが提出されている。

球戯場の誓い(1789年)

憲法制定国民会議に改称 6月23日、三部会にルイ16世が親臨し、いくつかの保留事項以外の一般的利害に関する事項は頭数による投票とする、その他、租税負担の平等、個人の自由、出版の自由、農奴制の消滅などを宣言し、三部会の解散を要求したが、第三身分の議長バイイ、ミラボーらは無視、議場を動かなかった。国王は結局譲歩して特権二身分の第三身分への合流を勧告、三部会は消滅することとなった。その結果、7月9日に、国民議会は憲法制定を任務とした憲法制定国民議会として正式に発足した。

サン・バルテルミの虐殺(1572年)

事件の経過~ユグノー戦争のその後~ ブルボン家のアンリは捕らえられて宮中に幽閉され、1576年に脱出し、さらにしばらく新教徒を率いて戦い、1589年にヴァロワ朝が途絶えたことによりアンリ4世として即位しブルボン朝を開いた。1593年にカトリックに改宗したうえで翌年パリに入城し、1598年にナントの王令で新教の信仰を認めてユグノー戦争を終わらせた。