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神曲(13世紀~14世紀)

トスカーナ地方の口語で書く
描かれている内容は、中世的な世界観、迷信の域を出ていないが、重要なことはこの作品がトスカーナ地方の口語で書かれたことであった。ダンテは、『俗語論』という論文も残しており、そこでもラテン語はすでに死後になったことを確認し、口語すなわち話し言葉が方言のまま洗練されずにいることを懸念し、美しい「国語」に高める必要がある、そのためには国民的統一が必要であると主張している。この思想がイタリア語の形成の第一歩となった。

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松林図屏風(1593年~1595年)

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使節団の構成 使節の少年たちは有馬晴信が日野江城下に建てたセミナリヨで学ぶ生徒の中から選ばれた。使節4名の正確な生年月日は不明だが、派遣当時の年齢は13-14歳であった。中浦ジュリアンが最年長、原マルティノが最年少と言われる。