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二条城(1603年~1873年)

織田信長・誠仁親王の「二条新御所」
信長は1576年4月に京に滞在した際、二条通南側の妙覚寺に宿泊したが、寺の東側に隣接する公家の二条家の邸宅の庭の眺望を気に入った。二条邸は当時、「洛中洛外図屏風」に必ず描かれるほどの名邸であった。前従者の二条晴良・昭実父子は直前に信長のはからいにより報恩寺の新邸に移徙して空き家となっていたので、信長が上洛した時の宿所とするため、この旧二条邸を譲り受けて、「二条殿御構へ」の普請を京都所司代の村井貞勝に命じた。

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松林図屏風(1593年~1595年)

松林図をめぐる諸説 試しに継ぎ目を元の状態に戻すと、左隻の右1扇目上部の山から緩やかな三角形をえがいた安定のよい構図にまとまる。更に、左隻3、4扇目やや下の斜めに傷のように走る線がほぼ繋がるようになり、ちょうど対辺延長上の両端に落款が押されている。しかし今度は、左隻下の地面を表す薄墨が大きくずれ、現状の作品がもつリズム感が失われてしまう。また、この落款は基準印と異なる事から、後に押された可能性が高い。これを説明するため、元々この間に現在は失われた1、2扇があったとする案や、元は屏風の左右が逆で、左隻左端中程にわずかに覗く枝の先端部が右隻右端の松の延長部分とする仮説などが提出されている。

応永の乱(1399年)

義満と義弘の対立 1394年義満は将軍職を嫡男の義持に譲り、太政大臣に昇る。もちろん、実権は掌握したままだった。1395年には太政大臣を辞して出家し、道義と称した。諸大名、公家はこぞってこれに追従して出家し、義弘もまた出家した。

天正遣欧少年使節(1582年)

使節団の構成 使節の少年たちは有馬晴信が日野江城下に建てたセミナリヨで学ぶ生徒の中から選ばれた。使節4名の正確な生年月日は不明だが、派遣当時の年齢は13-14歳であった。中浦ジュリアンが最年長、原マルティノが最年少と言われる。