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湯島聖堂(1690年)

史跡指定と文化財保護
公益上必要やむを得ない場合を除き、聖堂跡地の現状変更を許可しないものとして、1922年3月8日、敷地が国の史跡に指定された。指定名称は「湯島聖堂」である。1956年4月18日には、文化財保護委員会により財団法人斯文会が史跡の管理団体に指定された。1986年度より文化庁による建物の保存修理工事が行われ、1993年3月に竣工した。

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