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正倉院(756年)

正倉院宝物
756年6月21日、光明皇太后は夫である聖武太上天皇の七十忌に際して、天皇遺愛の品約650点、及び60種の薬物を東大寺の廬舎那仏に奉献したのが始まりである。光明皇太后はその後も3度にわたって自身や聖武天皇ゆかりの品を大仏に奉献し、これらの献納品は正倉院に納められた。献納品目録である『東大寺献物帳』も正倉院に保管されている。献物帳は五巻からなり、それぞれ『国家珍宝帳』、『種々薬帳』、『屛風花氈等帳』、『大小王真跡帳』、『藤原公真跡屛風帳』と通称されている。

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