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ボロブドゥール遺跡(8~9世紀)

再発見と修復
その建造の経緯などは文献が無くよくわかっていない。10世紀にはジャワ島中部のムラピ火山が大噴火を起こし、人々が住めない状況となったため、ボロブドゥールの存在も忘れられてしまい、19世紀にイギリスのラッフルズによって再発見され、その後はオランダ人によって修復が進められた。最近ではユネスコの手で修復工事が行われ、その構造や建築技法が判ってきた。ボロブドゥール遺跡は東南アジアの仏教建築の最高傑作とされ、世界遺産に登録されている。

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