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4月, 2022の投稿を表示しています

新選組(1863年~1869年)

解散 1867年10月に将軍・徳川慶喜が大政奉還を行った。新選組は旧幕府軍に従い戊辰戦争に参加するが、初戦の鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗北。榎本武揚が率いる幕府所有の軍艦で江戸へ撤退する。この時期、戦局の不利を悟った隊士たちが相次いで脱走し、戦力が低下した。

原子爆弾(1945年)

広島・長崎への投下 この広島・長崎への原爆投下はアメリカ大統領トルーマンが決断したことであったが、その理由はなおも抵抗を続ける日本に対し、上陸作戦を実行すれば100万もの犠牲者が出ることを想定されたので、戦争を終わらせるためにはやむを得なかったと主張されている。しかし、原爆の使用が人道的に許されるのかは批判が多い。またアメリカ軍の判断も日本を敗戦に追い込むより、戦後のソ連との対立を見込み、ソ連よりも先に原爆を開発し、使用しておくことが必要だったという理由が大きかったともされている。いずれにせよ、人類最初の核兵器の使用でもあり、戦闘員による戦争の枠を遙かに超え、一瞬のうちに数万の人命を奪う、戦略目的の大量破壊兵器の使用が最初におこなわれたのだった。

盧溝橋事件(1937年)

盧溝橋について 盧溝橋は北京西南部郊外の永定河に架かる橋で、金代の1189年に完成し、元代にマルコ・ポーロがこの橋を渡ったことが『東方見聞録』に現れる名所である。盧溝橋と蘆溝橋が長い間混用されてきたが、1981年に中国政府が橋のたもとに立つ清の乾隆帝直筆の「盧溝暁月」碑を尊重して、盧溝橋に統一することを決定した。

五品江戸廻送令(1860年)

背景 日米修好通商条約や安政の五カ国条約の締結により、1859年から箱館・横浜・長崎の3港で貿易が開始し、港に居留する外国商人と日本の商人との間で取引が行われるようになった。日本からは主に生糸が輸出されたが、生糸などの輸出品は、国内市場よりも貿易市場の方が高値で取引されていたため、生産地と市場を仲立ちしていた在郷商人は、江戸などの大都市の問屋ではなく、直接、開港場へ生産品を卸すようになった。そのため、江戸の問屋商人を中心とする従来の流通機構が徐々にほころびを見せ始めた。さらに太平天国の乱へイギリス・フランスの介入が本格化すると、本来ならば需要がない筈の雑穀や蝋などの軍需品の輸出の増加も始まった。こうした、急増する輸出需要に対し、生産供給が追いつかず、全般的に物価が高騰するなど、日本経済に大きな混乱が生じていた。

歌舞伎(17世紀)

元禄 次の画期が元禄にあたるとするのが定説である。歌舞伎研究では寛文・延宝頃を最盛期とする歌舞伎を「野郎歌舞伎」と呼称し、この時代の狂言台本は伝わっていないものの、役柄の形成や演技類型の成立、続き狂言の創始や引幕の発生、野郎評判記の出版など、演劇としての飛躍が見られた時代と位置づけられている。この頃には「演劇」といってはばかりのないものになっていた。江戸四座のうち格段に早く成立した猿若勘三郎座を除き、それ以外の三座が安定した興行を行えるようになったのも寛文・延宝のころである。

ええじゃないか(1867年)

御札降りとええじゃないかと御蔭参り 近畿や四国などの西日本圏では、ええじゃないか、という掛け声が見られるものの、東海地方ではそうした掛け声はなく、御札降りのみ共通点が見られる。また、東海地方では、狂乱騒動を御鍬参りや御蔭参りに結び付けて、共通点とするという解釈がなされている。

下関条約(1895年)

再現された日清講和会議の会議場 1895年3月19日から行われた日清講和会議は、下関の春帆楼で開催された。それは伊藤博文がよく利用していたふぐ料理の料理屋で、ちなみに江戸時代には禁制だったふぐ料理を、はじめて許可された店としても知られている。伊藤博文と李鴻章が顔を合わせて会議は春帆楼の2階の大広間で行われたが、その部屋は隣接する「日清講和記念館」に再現されている。

大東亜共栄圏(1940年~1945年)

「大東亜が日本の生存圏」 日本・満州国・中華民国を一つの経済共同体とし、東南アジアを資源の供給地域に、南太平洋を国防圏として位置付けるものと考えられており、「大東亜が日本の生存圏」であると宣伝された。但し、「大東亜」の範囲、「共栄」の字義等は当初必ずしも明確にされていなかった。

岩のドーム(7世紀)

ムハンマドの「夜の旅」 「コーラン」第17章1節に見られるムスリムの伝承によれば、ムハンマドはある夜、メッカからエルサレムまで、天馬ブラークに乗って旅をし、そこから天にのぼって神の声を聞き、その玉座の前にひれ伏したという。天に昇るときに足をかけた石が、ドームに覆われている聖石であり、その表面にはムハンマドの足跡が残っていると信じられている。この伝承によってエルサレムはイスラーム教徒にとって、メッカ、メディナにつぐ第三の聖地と定められた。アブドゥルマリクによる岩のドームの建設は、カリフの権威を高めるだけでなく、信仰の新しい中心を生み出す役割も果たした。

大雁塔(652年)

大雁塔と慈恩寺 1907年9月22日、西安を旅した京都大学教授、東洋史学者の桑原隲蔵が、その著『考史遊記』に残した大雁塔と慈恩寺の紹介。

マチュ・ピチュ(15世紀)

ハイラム・ビンガム3世の遺跡調査記録 ビンガムは1915年までに3回の発掘を行った。彼はマチュ・ピチュについて一連の書籍や論文を発表し、最も有名な解説「失われたインカの都市」がベスト・セラーになった。この本は『ナショナル・ジオグラフィック』1913年4月号ですべてをマチュ・ピチュ特集にしたことで有名になった。また1930年の著書『マチュ・ピチュ:インカの要塞』は廃墟の写真と地図が記載され説得力のある決定的な論文となった。以後、太陽を崇める神官たちが統治したとか、あるいは太陽に処女たちが生贄にされたといった定説が形成された。

古代オリンピック(紀元前8世紀~4世紀)

オリンピア競技会の始まり オリンピック競技会の最古の記録は紀元前776年にさかのぼる。ギリシャではオリンピア開催年を基準に年代を数えたので、この年がその起点となっている。この前8世紀は、まさにギリシャのポリスが形成されつつあった時期であった。オリンピアの祭典は、デルフォイの神事と並び、ギリシャ人がヘレネスとして同一の世界を形成していることをたしかめるポリスの枠を超えた“国際的祭典”として挙行したものであった。

エジプト古王国(前2686年~前2185年)

ピラミッドの建造 古王国では、ファラオによる神権政治が行われ、盛んにピラミッドが建造された。ピラミッドは第3王朝に始まり、第4王朝のクフ王、カフラー王、メンカフラー王のギザの三大ピラミッドなど、前2500~2400年代に造られている。エジプト古王国の時代は、まだ鉄器は知られず、青銅器文明の段階であった。

最後の晩餐(1495年~1498年)

画風・構図~人物の同定~ キリストの向かって左の人物は定説では使徒ヨハネとされる。他の使徒がキリストの言に驚いて慌てた仕草をしているのに対してこの人物は手を組んで落ち着き、哀しそうな顔をしているようにみえる。また青い服に薄赤のマントの人物はペトロの言葉に耳を傾けるように描かれており、ヨハネによる福音書13章23-24節の、ペトロがヨハネに問いかけている場面を絵画化したと見るのが穏当であろう。ただし同書で同人物は「イエスの愛しておられた弟子」と記載されており「ヨハネ」の名は無い。

大北方戦争(1700年~1721年)

緒戦のスウェーデン軍の勝利 1700年、デンマーク軍のスウェーデン侵入から戦争が始まり、ロシアもバルト海一帯に軍を進めたが、ナルヴァの戦いで当時18歳の青年国王カール12世に率いられたスウェーデン軍に大敗した。スウェーデン軍は装備に勝り、ロシア軍の戦術、装備の遅れが敗因であった。スウェーデン軍はさらにポーランドに侵入して各地で勝利し、ザクセンまで侵入した。

アンコール・ワット(12世紀末)

アンコール・ワットの建立 カンボジア王国のアンコール朝、スールヤヴァルマン2世は東のチャンパーや西のタイ方面にも遠征軍を送り征服活動をおこなった。またこのころインドのヒンドゥー教が活発な港市での交易を通じ、東南アジアに広がり、広くインド化が進んだ。スールヤヴァルマン2世もヒンドゥー教のヴィシュヌ神を信仰し、前王が信仰していたシヴァ神に代わって新たにヴィシュヌ神を祭る神殿を建設した。それがアンコール・ワットであった。スールヤヴァルマン2世の支配が安定した1125年ごろに着手され、完成までに30年以上を要したという。

コロッセオ(80年)

中世 ローマ帝国のキリスト教化に伴い血生臭い剣闘士競技は禁止されたと言われているが、443年に地震で破損したコロッセオの修復を行ったことを記念する碑文が残されており、地中海西部でのローマ帝国の支配が崩壊した6世紀でも修復の記録が残っていることから、古代末期までは競技場として使用されていたと考えられている。

蘭学事始(1815年)

経緯 高齢になった日本蘭学の先駆者・杉田玄白は、自身の死後に蘭学草創期の史実が後世に誤り伝わることを懸念し、自らの記憶する当時のことを書き残そうと決意した。1814年にいちおう書き終わり、高弟の大槻玄沢に校訂させ、1815年に完成を見る。

法隆寺(607年)

 創建 法隆寺のある斑鳩の地は、生駒山地の南端近くに位置し、大和川を通じて大和国と河内国とを結ぶ交通の要衝であった。付近には藤ノ木古墳を始めとする多くの古墳や古墳時代の遺跡が存在し、この地が古くから一つの文化圏を形成していたことをうかがわせる。

島原の乱(1637年~1638年)

乱の勃発~島原の一揆~ 過酷な取立てに耐えかねた島原の領民は、武士身分から百姓身分に転じて地域の指導的な立場に立っていた旧有馬氏の家臣の下に組織化、密かに反乱計画を立てていた。肥後天草でも小西行長・加藤忠広の改易により大量に発生していた浪人を中心にして一揆が組織されていた。島原の乱の首謀者たちは湯島において会談を行い、キリシタンの間でカリスマ的な人気を得ていた当時16歳の少年天草四郎を一揆軍の総大将として決起することを決めた。1637年12月11日、有馬村のキリシタンが中心となって代官所に強談に赴き代官・林兵左衛門を殺害、ここに島原の乱が勃発する。

参勤交代(1635年)

制度前 1635年三代将軍徳川家光の時代に『武家諸法度』が改定され、第二条で「大名小名在江戸交替相定也、毎歳夏四月中可参勤」と規定されたことによって、制度としての参勤交代が明文化された。

更級日記(1020年~1059年)

かどで あづまぢの道のはてよりも、猶おくつかたに生ひいでたる人、いか許かはあやしかりけむを、いかに思ひはじめける事にか、世の中に物語といふ物のあんなるを、いかで見ばやと思ひつつ、……