豊臣秀吉の九州平定 1587年3月、秀吉は臣従した義久を「一命を捨てて走り入ってきたので赦免する」として、義久には薩摩、義弘は大隅を安堵し、義弘の子島津久保には日向諸県郡のうち真幸院をあたえた。また、5月30日には佐々成政に肥後一国をあたえた。さらに秀吉は同年6月7日、筑前箱崎に陣を構え、博多を直轄都市としたうえで、小早川隆景に筑前・筑後および肥前のうち1郡半の約37万石、黒田孝高には豊前のうち6郡の約12万5,000石、立花統虎には筑後柳川城13万2,000石、毛利勝信には豊前小倉約6万石をそれぞれあたえた。宗麟の子大友義統には豊後一国、日向の伊東祐兵、肥前の龍造寺政家、大村喜前、松浦鎮信、対馬の宗義智には、それぞれ所領を安堵した。これが、「九州国分」と呼ばれる、九州平定事業にともなう知行割りの概略である。