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高瀬舟(1916年)

冒頭 高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である。徳川時代に京都の罪人が遠島を申し渡されると、本人の親類が牢屋敷へ呼び出されて、そこで暇乞をすることを許された。それから罪人は高瀬舟に乗せられて、大阪へ回されることであった。

雪国(1935年)

冒頭 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した。雪の冷気が流れこんだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、「駅長さあん、駅長さあん」明りをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。

東海道五十三次(1833年)

五十三次の一覧 数は品川宿からの通し番号である。江戸と京の間は里程124里8丁、487.8キロメートル。

能(14世紀)

主な曲目 本節では中世に成立した古典の曲目のうち、現在でも頻繁に上演されているものを紹介する。これらは現行曲と呼ばれ、流派によって異なるが、おおむね二百数十番が現行曲とされている。しかし歴史的にはこれらの他にも2000番から3000番程度の曲が作成されている。これら廃曲となった曲の中には、現代になって再演を試みられることもある。また、近代や現代においても新しい曲が書かれることがある。これらは新作能と呼ばれる。

見返り美人図(17世紀)

概要 師宣の代表作にして、彼の代名詞的一図。美人画。肉筆画。東京国立博物館蔵。女性は、17世紀末期当時の流行であった女帯の結び方「吉弥結び」と、紅色の地に菊と桜の刺繍を施した着物を身に着けている。それらを美しく見せる演出法として、歩みの途中で後方に視線を送る姿で描かれたものと考えられる。

朱印船(16世紀末~17世紀)

日本町の形成 鎖国政策がとられる直前の1635年まで、日本の御朱印船は台湾、フィリピン、ベトナム、カンボジア、タイなどとの交易を行っていた。東南アジア各地に渡航した日本人は、タイのアユタヤやマニラなどに日本町を作り、拠点とした。カンボジアのアンコール・ワットにはこのころに訪れた日本人の落書が残っている。

倭寇(13世紀~16世紀)

後期倭寇~勘合貿易~ 15世紀はじめの日明勘合貿易の成立で倭寇は一時収まったが、1523年、寧波での細川氏と大内氏の衝突事件以後に衰え、明も海禁政策を強めたので、日本の貿易商は沿岸で略奪に走るようになった。16世紀後半になると、勘合貿易が衰退し、再び民間の貿易が活発になったが、それらは海禁政策の建前では、密貿易ということになり、役人の取り締まりに武装して戦えば海賊とされた。そのような武装した密貿易集団は倭寇として捉えられた。

徒然草(1331年)

仁和寺にある法師 仁和寺にある法師、年寄るまで、石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、ただ一人、徒歩よりまうでけり。極楽寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。さて、かたへの人にあひて、「年ごろ思ひつること、果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて、尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけむ、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。少しのことにも、先達はあらまほしき事なり。

天正遣欧少年使節(1582年)

使節団の構成 使節の少年たちは有馬晴信が日野江城下に建てたセミナリヨで学ぶ生徒の中から選ばれた。使節4名の正確な生年月日は不明だが、派遣当時の年齢は13-14歳であった。中浦ジュリアンが最年長、原マルティノが最年少と言われる。

鹿鳴館(1883年~1940年)

鹿鳴館時代 一方、欧化政策を批判する国粋主義は鹿鳴館での行事を「嬌奢を競い淫逸にいたる退廃的行事」などとして非難の声を挙げるようになっていた。井上の鹿鳴館外交への風当たりは次第に厳しいものとなり、さらに条約改正案の内容が世間に知られると、大反対が起こった。面目を失した井上は1887年9月に外務大臣を辞任し、井上の辞任とともに鹿鳴館時代は幕を下ろすことになった。

永禄の変(1565年)

事件の背景~将軍義輝の復権~ だが、将軍と対立し幕府機構に頼らないまま京都の支配を維持することは困難であった。その上、義輝が朽木へ動座した後も断続的に六角氏や畠山氏の攻撃を受け、京都支配は一向に安定する兆しを見せなかった。1558年、長慶は六角義賢の支援する義輝や細川晴元の攻撃を受け、戦況は優位に推移していたものの、六角の仲介を容れて和睦した。義輝は5年ぶりに帰洛し、長慶は御相伴衆に列せられて有力大名としての待遇を受けることとなり、幕府は将軍・三好氏が協調する形で復活した。三好政長の子でこれまで敵対してきた三好宗渭も長慶に従った。

神聖同盟(1815年)

自由主義・民族主義の弾圧~平和維持機構としの評価~ 神聖同盟は正統主義の理念の下、オーストリアのメッテルニヒによって牽引され、ウィーン体制を維持し、革新運動を弾圧する軍事同盟として機能した。同時に、ウィーン体制は19世紀列強の対立を調整し、ナポレオン戦争後の大規模な戦争が起こるのを避けるという「平和維持機構」としては一定の評価がされるべきである。しかし、次第に加盟国の利害の対立が明確になり、維持が困難となっていった。

ライプツィヒの戦い(1813年)

背景 ロシア遠征、半島戦争でのナポレオンの敗北を受けて、反フランスの第六次対仏大同盟が結成され、イギリス、ロシア、スペイン、ポルトガル、プロイセン、オーストリア、スウェーデンとドイツのいくつかの領邦が参加した。ライプツィヒの戦いが開始されるまでにライン川以東に配置されていたロシア・オーストリア・プロイセン・スウェーデンその他の連合軍の兵力は100万を超えていたと推測される。それに対して、ナポレオンの兵力は減少し数十万ほどであった。

アメリカ独立宣言(1776年)

独立宣言に欠けていたこと 独立を達成したアメリカ合衆国の市民とは、ヨーロッパからの白人入植者のことであった。そこには、先住民であるインディアンと、奴隷としてアフリカから連れてこられていた黒人の人権は認められておらず、黒人奴隷も依然として残されていた。

トリエント公会議(1545年~1563年)

会議の経過~第一会期~ 改革派の枢機卿パールが司会するなどプロテスタント派との和解が図られたが、プロテスタント派はルターが病気中であったため参加できなかった。カール5世は並行してプロテスタント諸侯のシュマルカルデン同盟とのシュマルカルデン戦争を行い勝利した。

日英通商航海条約(1894年)

概要 以降、1894年から翌1895年にかけて同内容の条約を米、仏、独、露、蘭、伊など14カ国とも調印した。これにより、日本は法権の上では欧米列国と対等の関係に入った。しかし、もう一つの悲願である関税自主権回復はこの条約では成し得ず、イギリスからの輸入品の約70パーセントは協定税率の束縛を受けることとなった。この時点では法権回復を主目的とし、税権については一部回復を目指したので、当初の目的は達成されたことになる。

民撰議院設立建白書(1873年)

建白書の内容 愛国公党を結成して5日後の1874年1月17日、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣、由利公正、岡本健三郎、および起草者の古沢滋、小室信夫の8名は、連名で民選議院設立建白書を左院に提出した。左院とは、当時の立法議政機関である。

嘉吉の乱(1441年)

乱の経過~将軍殺害~ 一同が猿楽を観賞していた時、にわかに馬が放たれ、奥の方から鈍く轟く音が聞こえた。義教が「何事ぞ」とつぶやき、傍らに座していた正親町三条実雅が「雷鳴でありましょう」と答えた。その直後、障子が開け放たれるや甲冑を着た武者数十人が宴の座敷に乱入し、義教を斬殺した。義教の首をとったものは、安積行秀と伝えられる。

方丈記(1212年)

ゆく河の流れ ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世中にある人と栖と、またかくのごとし。

友情(1919年)

冒頭 野島はこの小説を読んで、泣いた、感謝した、怒った、わめいた、そしてやつとよみあげた。彼はいきなり机に向つて、大宮に手紙をかいた。「君よ。君の小説は君の予期通り僕に最後の打撃を与へた。ことに杉子さんの最後の手紙は立派に自分の額に傷を与へてくれた。いつか山の上で君達と握手する時があるかも知れない。しかしそれまでは君よ、二人は別別の道を歩かう。君よ、僕のことは心配しないでくれ、傷ついても僕は僕だ。いつかはさらに力強く起き上るだらう。これが神から与へられた杯ならばともかく自分はそれをのみほさなければならない」野島はそれをかき上げると彼は初めて泣いた。

九州平定(1587年)

豊臣秀吉の九州平定 1587年3月、秀吉は臣従した義久を「一命を捨てて走り入ってきたので赦免する」として、義久には薩摩、義弘は大隅を安堵し、義弘の子島津久保には日向諸県郡のうち真幸院をあたえた。また、5月30日には佐々成政に肥後一国をあたえた。さらに秀吉は同年6月7日、筑前箱崎に陣を構え、博多を直轄都市としたうえで、小早川隆景に筑前・筑後および肥前のうち1郡半の約37万石、黒田孝高には豊前のうち6郡の約12万5,000石、立花統虎には筑後柳川城13万2,000石、毛利勝信には豊前小倉約6万石をそれぞれあたえた。宗麟の子大友義統には豊後一国、日向の伊東祐兵、肥前の龍造寺政家、大村喜前、松浦鎮信、対馬の宗義智には、それぞれ所領を安堵した。これが、「九州国分」と呼ばれる、九州平定事業にともなう知行割りの概略である。

日明貿易(1401年~1549年)

勘合符 明の勘合貿易で用いられた一種の交易許可証。勘合符とは割符ともいい、明朝が発行した一通を折半して、片方を相手国に交付、割符を所持して来港した船を明側の割符と照合して取引を成立させた。

日米修好通商条約(1858年)

経緯 ハリスは清と戦争中のイギリスやフランスが日本に侵略する可能性を指摘し、それを防ぐには日本が友好的なアメリカと通商条約を結ぶ他無いと説得した。幕閣の大勢はイギリスとフランスの艦隊が襲来する以前に一刻も早くアメリカと条約を締結すべきと判断した。

樺太・千島交換条約(1875年)

先住民族アイヌの処遇 一方で、北海道や樺太および千島列島における先住民であったアイヌは、この条約によって3年以内に自身の国籍について日本国籍かロシア国籍かを選ぶことを強要された。さらに国籍と居住国が異なる場合、居住国を退去して国籍と一致する国の領土へ移住することを余儀なくされた。

トプカプ宮殿(15世紀~19世紀)

「世界の富を集めたトプカプ」 トプカプ宮殿は現在は博物館となっており、「世界の富を集めた」と言われたオスマン帝国のスルターンの豪勢な生活を偲ぶことが出来る。スルターンたちの宝石をちりばめた玉座や、王子の金のゆりかごなどがすごいが、目を引くのは膨大な東洋の陶磁器であり、景徳鎮でつくられた宋代の白磁や青磁、元・明代の染付などが膨大な量、保管されている。これは中国や日本から「陶磁の道」を経てイスタンブールに運ばれたものである。

黄巾の乱(184年)

宗教運動から農民反乱へ 河南省を中心とした反乱は河北省に及んだ。後漢政府は当時「党錮の禁」で捕らえていた党人を許し、党人と農民反乱が結束することを防いだ上で、豪族の協力を得て12月までに黄巾の乱を鎮定した。その後も散発的な反乱が続いて中央政府の威信はなくなり、各地の有力豪族が自立して、動乱の時代に入る契機となった。

アメリカ独立戦争(1775年~1783年)

独立戦争の経緯~開戦~ 1775年4月、イギリス軍は植民地人が武器を貯蔵しているとしてマサチューセッツのコンコードに舞台を派遣した。警戒していた植民地人は、イギリス軍がレキシントンの町にさしかかったときに一斉に銃撃、さらにボストンに撤退するイギリス軍を追撃してゲリラ戦でその多くを殺した。このレキシントンの戦いからアメリカ独立戦争が始まった。この時の植民地側民兵は、服装もまちまちで、銃一丁を手に、数分で戦う準備ができたので、ミニットマンと言われた。

スペイン継承戦争(1701年~1714年)

スペイン王位継承問題~戦争の開始~ ブルボン家のフィリップがフェリペ5世として即位したことで決着がついたかに見えたが、問題が生じた。それは新国王フェリペ5世がフランス王位継承権を放棄していないことだった。このままだと、将来、フランスとスペインが一体となることもありうる。また、フェリペ5世はさっそくアメリカにおける黒人奴隷貿易の独占権をフランスの貿易会社に与えるという便宜供与を行った。これに対してイギリス・オランダが強く反発、1701年、オーストリアも加えて対仏大同盟を結成してフランスに宣戦布告、スペイン継承戦争が始まった。

イタリア戦争(1494年~1559年)

イタリア戦争の性格 イタリア戦争を近代以降の戦争と同じものと考えてはいけない。動機は国王間の財産や相続という私的な利害関係から起こった、「中世的な要素」の戦争であった。近代の戦争のような明確な国家間の対立から起こった戦争ではない。しかし、同時にイタリア戦争は「近代ヨーロッパ」の始まりを示すと言われるような新しい側面をもっていた。

奴隷解放宣言(1863年)

リンカーンの奴隷制反対論 しかし、1860年に大統領となったリンカーンが、最初から奴隷制度反対論者だったとは言えない。彼は、当初は南部の現状では黒人奴隷の存在はやむを得ないが、その拡大には反対する、というものであった。また大統領には州の奴隷制度を廃止する権限はないと考えていた。しかし、南北戦争が進行する中で、連邦の維持のためには北軍の勝利が必要であり、そのためには国際的な支援を得るためにも、黒人奴隷の解放を宣言せざるを得なくなったのであった。

ドイツ帝国(1871年~1918年)

ドイツ帝国の成立 19世紀前半のナショナリズムの高揚期に持ち上がったドイツ統一問題は、フランクフルト国民議会で大ドイツ主義と小ドイツ主義の対立があって、統一を達成できなかったが、宰相ビスマルクのもとプロイセンの主導する小ドイツ主義の路線で統一され、オーストリアは除外された。

ニ月革命(1848年)

二月革命の概略~二月革命の党派~ 二月革命を実行し、第二共和政を実現し臨時政府に参加した人びとには、穏健共和派・急進共和派・社会主義者など、さまざまな党派があった。その色分けはおよそ次のようになる。

四国平定(1585年)

概要 元親は秀吉に伊予一国を割譲して和睦しようと考えたが、秀吉はこれを拒否した。変わって秀吉は元親に降伏を勧告するも拒否されたため、長宗我部氏討伐・四国征伐を決意した。まずは弟の豊臣秀長の軍を淡路島経由で阿波方面から、毛利氏傘下の小早川隆景・吉川元長の軍を伊予から、宇喜多秀家の軍を讃岐から、それぞれ侵攻させた。またこの際、長宗我部氏によって四国を追われた三好氏の残党なども秀吉軍に協力した。

岩倉使節団(1871年~1873年)

出発 1871年11月12日に米国太平洋郵船会社の蒸気船「アメリカ」号で横浜港を出発し、太平洋を一路カリフォルニア州 サンフランシスコに向った。その後アメリカ大陸を横断してワシントンD.C.を訪問したが、アメリカには約8か月もの長期滞在となる。その後大西洋を渡り、ヨーロッパ各国を歴訪した。

第二次世界大戦(1939年~1945年)

第2期:西ヨーロッパでの戦争~日中戦争の膠着化~ 日中戦争では、日本軍は重慶の蒋介石政権を動揺させるため、1940年3月、蒋介石と対立していた汪兆銘をに南京「国民政府」を樹立させて有利な講和を図り、重慶に対しては1940年5月から激しい重慶爆撃を加えた。しかし、援蒋ルートによって維持された蒋介石を屈服させることは出来なかった。

第一次世界大戦(1914年~1918年)

第一次世界大戦の概要と世界史的ポイント~大量殺戮兵器の出現~ また戦争の形態は高度に技術化され、飛行機、潜水艦、戦車、毒ガスなど新しい武器を出現させ、戦争は戦闘員のみならず、一般市民を巻き込み、広範な犠牲を人的、物的に及ぼす戦争となった。このような戦争形態の変化は約百年前のナポレオン戦争に萌芽があったが、第一次世界大戦で徴兵制度、国民動員、科学技術の戦争利用、秘密外交などの現代の戦争の要素がさらに鮮明となった。

朝鮮戦争(1950年~1953年)

経過~北軍の侵攻~ 1950年6月25日、金日成の率いる北朝鮮軍が軍事行動を開始し、北緯38度線を越えて韓国に侵攻した。国際連合の安全保障理事会は緊急会議を開催し、即時停戦と北朝鮮の撤退勧告を決議した。この時、常任理事国のソ連は中国代表権問題で他の4常任理事国と対立して安保理をボイコットし欠席していたので、ソ連抜きの安保理決議となった。アメリカのトルーマン大統領は緊急を要すると判断してアメリカ軍を単独で派遣することを決意、日本駐留のアメリカ軍に出動を命じた。

薩英戦争(1863年)

戦闘について~戦闘詳報~ 午前10時、捕獲されたは、「コケット」、「アーガス」、「レースホース」の各艦の舷側に1隻毎に結わえられて牽引され、桜島の小池沖まで曳航された。これをイギリス艦隊の盗賊行為と受け取った薩摩方は7箇所の砲台に追討の令を出す。

官営八幡製鉄所(1901年)

近代化産業遺産として~旧鍛冶工場~ 1900年に建設された鉄骨造の建物。設計及び使用鋼材はGHH社による。製鉄所で使用する鍛造品の製造が行われ、大正時代に現在の場所に移転してからは製品試験所として使用された。現在は創業時からの資料を保管する史料室となっている。見学は不可。

ニューディール政策(1933年~1937年)

ニューディール政策の要点 1.銀行および通貨の統制:閉鎖された銀行の再開と通貨の管理。すべての銀行はきびしく連邦政府の監督を受け、健全な再建ができるところには貸し付けが行われ、救済不能な銀行は整理された。また1933年4月19日には金本位制は停止され、金銀貨や硬貨は回収され政府に委託。合衆国政府当局の発行し管理する紙幣に切り替え、従来の紙幣と金銀貨を交換する権利は廃止された。これで巨額の金銀をもつ銀行が持っていた合衆国の通貨発行への支配力はなくなった。

摂関政治(967年~1068年)

道長・頼通まで 安和の変による源高明の追放、次いで源兼明の皇族復帰によって他氏排斥が完了した後は、藤原北家の内部で権力争奪が行われることとなった。安和の変後、冷泉・円融両天皇の外戚であった藤原師輔の子である藤原兼通・兼家兄弟が摂関の座を争って互いにその出世を妨害しようとした。

アウステルリッツの戦い(1805年)

1805年オーストリア戦役 1805年、ナポレオンは新たに現れたオーストリアおよびロシアの脅威に対処すべく、軍の目標をイギリス海峡からライン川へ振りかえた。9月10日にオーストリア軍がフランスの同盟国であるバイエルンに侵攻した。これに対して、ナポレオンは元老院においてバイエルン救援を宣言する。

球戯場の誓い(1789年)

憲法制定国民会議に改称 6月23日、三部会にルイ16世が親臨し、いくつかの保留事項以外の一般的利害に関する事項は頭数による投票とする、その他、租税負担の平等、個人の自由、出版の自由、農奴制の消滅などを宣言し、三部会の解散を要求したが、第三身分の議長バイイ、ミラボーらは無視、議場を動かなかった。国王は結局譲歩して特権二身分の第三身分への合流を勧告、三部会は消滅することとなった。その結果、7月9日に、国民議会は憲法制定を任務とした憲法制定国民議会として正式に発足した。

教会大分裂(1378年~1417年)

教皇のアヴィニョン捕囚が終わる 1309年のクレメンス5世からローマ教皇が南フランスのアヴィニョンに移され、フランス王権の監視下に置かれていた。それに対してローマ市民や多くのキリスト教徒から、教皇のローマ帰還を望む声が強まってきた。その声に応えて1377年、ローマ教皇グレゴリウス11世がアヴィニョンからローマに帰還して教皇のバビロン捕囚は終わりを告げた。

アルマダの海戦(1588年)

無敵艦隊の壊滅 スペインは別に陸上部隊を派遣し、無敵艦隊と呼応してイギリスに上陸させる作戦であったが、当時の通信技術では海軍と陸軍の連絡がうまくいかず、結局合流できなかった。そのため無敵艦隊は上陸を諦め、帰途につくことになったが、このとき南から強風が吹いていたので、イギリスを反時計回りに一周し、アイルランドの北側を抜けることにした。ところが、アイルランドの北側海域にさしかかると暴風雨に遭遇、慣れない海域でコントロールを失ったスペイン艦艇は次々と座礁したり沈没した。スペイン艦艇は30%以上が沈没し、兵士の約半数が命を落としたという。

元和偃武(1615年)

戦国時代の終期 戦国時代の終期にはいくつかの見解が存在するが、その一つが大坂の陣での豊臣氏の滅亡により、元和偃武によって戦国時代が終了したとの考え方である。

厳島の戦い(1555年)

背景 毛利と陶の攻防は海でも繰り広げられており、6月中旬には毛利方の水軍が陶氏本拠の周防富田浦を襲撃。対する陶方も水軍で厳島を攻めたが、宮尾城の守りにより陶軍の上陸は阻止された。7月になると、陶の調略を受けて呉・能美の警固衆が毛利から離反したが、9月には毛利と小早川の警固衆が両者を討伐、能美島を占領している。

応永の乱(1399年)

義満と義弘の対立 1394年義満は将軍職を嫡男の義持に譲り、太政大臣に昇る。もちろん、実権は掌握したままだった。1395年には太政大臣を辞して出家し、道義と称した。諸大名、公家はこぞってこれに追従して出家し、義弘もまた出家した。

大化の改新(645年)

改新の詔 646年春正月甲子朔、新政権の方針を示す改新の詔が発布された。詔は大きく4か条の主文からなり、各主文ごとに副文が附せられていた。詔として出された主な内容は以下の通りで、豪族連合の国家の仕組みを改め、土地・人民の私有を廃止し、天皇中心の中央集権国家を目指すものであった。

満州事変(1931年~1932年)

満州国の建設 関東軍は清朝の最後の皇帝であった溥儀を担ぎ出し、1932年3月に満州国を建設した。日本政府の犬養内閣は、満州国の承認をためらっていたが、5月に海軍軍人らによって首相が暗殺されるという五・一五事件が起きて政党政治が終わりを告げ、次の斎藤実内閣が軍部の圧力の下で9月、日満議定書を締結して満州国を承認、軍部の独断で始まった満州事変は国家によって追認された。多くの国民は関東軍の行為を、日露戦争で明治の日本人が血を流して獲得した満州の権益を不当な中国から守ったものとして歓迎した。