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王政復古(1868年)

経過~王政復古の大号令~ この宣言は、12月14日に諸大名に、16日に庶民に布告された。慶喜の将軍辞職を勅許し、一会桑体制を支えてきた会津藩・桑名藩を追うことで、慶喜の新体制への参入を排しつつ、一方では従来からの摂政・関白以下の朝廷機構の政治権力を復活させるのでもなく、五摂家を頂点とした公家社会の門流支配をも解体し、天皇親政・公議政治の名分の下、一部の公家と5藩に長州藩を加えた有力者が主導する新政府を樹立するものであった。

黒船来航(1853年)

背景~米墨戦争~ アメリカはすでに1846年にイギリスとの交渉でオレゴンの南半分をその領土としていたが、1846年 - 1848年の米墨戦争でカリフォルニアを獲得した。これによりアメリカは太平洋国家となり、巨大市場である清との貿易開拓が国家目標となった。アメリカ西海岸から中国に至る最短航路は、西海岸から北上し、アリューシャン列島・千島列島沿いに南下、津軽海峡と対馬海峡を通過して上海付近に至るものである。

寛政の改革(1787年~1793年)

内容~田沼政権との連続性~ 徳川黎明会徳川林政史研究所編著「江戸時代の古文書―寛政の改革」においては、「定信の反田沼キャンペーンは、かなり建前の面が強く、現実の政治は、田沼政治を継承した面が多々みられる。とくに学問・技術・経済・情報等の幕府への集中をはかったことや、富商・富農と連携しながらその改革を実施したことなどは、単なる田沼政治の継承というより、むしろ田沼路線をさらに深化させたといってよいであろう」と述べている。

小牧・長久手の戦い(1584年)

経過~長久手の戦い~ 岩崎城を占領した池田恒興、森長可に徳川軍出現の報が伝わり、両将は引き返しはじめた。そのころ、家康は富士ヶ根より前山に陣を構えた。右翼に家康自身3,300人、左翼には井伊直政勢3,000人、これに織田信雄勢3,000人。一方、引き返して対峙した恒興・森勢は右翼に恒興の嫡男・池田元助、次男・池田輝政勢4,000人、左翼に森勢3,000人、後方に恒興勢2,000人が陣取った。

姉川の戦い(1570年)

合戦までの経緯 尾張出身の戦国大名である織田信長は、駿河の今川義元を討ち取り、斎藤龍興から美濃を奪取したのち、上洛を目的として近江に侵攻した。侵攻に先立ち、北近江を治める浅井長政とは、妹であるお市の方を娶らせて織田氏との縁戚関係を結んでいた。信長は、浅井氏からも援軍を得て、共通の敵である南近江の有力大名である六角義賢父子を破り、足利義昭を奉じての上洛を果たした。

解体新書(1722年)

経緯 1771年3月4日、蘭方医の杉田玄白・前野良沢・中川淳庵らは、小塚原の刑場において罪人の腑分けを見学した。玄白と良沢の2人はオランダ渡りの解剖学書『ターヘル・アナトミア』こと "Ontleedkundige Tafelen "をそれぞれ所持していた。玄白は実際の解剖と見比べて『ターヘル・アナトミア』の正確さに驚嘆し、これを翻訳しようと良沢に提案する。かねてから蘭書翻訳の志を抱いていた良沢はこれに賛同し、淳庵も加えて翌日3月5日から良沢邸に集まって翻訳を開始した。

即興詩人(1835年)

あらすじ 北欧デンマーク出身のアンデルセンあこがれの地、南国イタリアを舞台に、親友の貴族ベルナルドオ、薄倖の歌姫アヌンチヤタ、小尼公フラミニア、盲目の美少女ララ、サンタ夫人、そしてヴェネツィアーの美女マリアらの美男美女を配し、イタリア各地の名勝旧跡、風光明媚な自然のたたずまいを情熱をこめて描写している。

マグナ・カルタ(1215年)

マグナ・カルタの意義 封建社会で慣習的に認められていた諸侯の権利を国王が認めたもので、そのほかに、教会の自由、市民の自由、不当な逮捕の禁止など人権に関する規定を含んでいた。また、第12条で、国王が軍役金を賦課する場合は、諸侯の会議に承認を得る必要があるという事項は、後に、国王といえでも議会の議を経ずに課税は出来ない、と解釈されるようになり、法の支配と議会政治の原則が成立したところに意義が求められている。そして、後のイギリス革命の時の「権利の請願」「権利の章典」と並んで、基本的人権と立憲君主政を理念とするイギリス憲法を構成する重要文書となった。

95か条の論題(1517年)

1517年10月31日 2017年10月31日は、ルターがヴィッテンベルク城内で、95か条の論題を張り出した1517年10月31日から500年、つまり宗教改革500年にあたっていた。ドイツのヴィッテンベルクで開催された記念行事では、プロテスタントの牧師とカトリックの神父による合同の式典が行われ、新旧両派の和解を演出したという。

ピータールーの虐殺(1819年)

マンチェスターで起きた労働運動弾圧 1819年8月16日には、マンチェスターで8万人の労働者が集まって選挙法改正と穀物法反対を訴えて、示威行動を行った。それに対して政府は軍隊を派遣して武力弾圧、12名の死者と多数の負傷者が出た。セント・ピーター広場で起こったこの事件を、ナポレオンが敗れた戦いのウォータールーにひっかけて、ピータールー事件という。20年代に入ると、経済の好況もあって運動は穏健化し、30年代政権がホイッグ党にうつると選挙法改正の動きが急速に具体化した。

統治二論(1690年)

内容~第二論~ ロックは国家を基礎付けるために自然状態についての考察から始めている。ロックの自然状態では、人間は自然法に従った範囲内において完全に自由な状態にあり、原則的に服従関係がない平等な状態である。ここで導入されている自然法の規範によれば人間には所有権が認められている。この所有権の起源は労働に求められ、全ての人間が持つものである。もし自然法が認識されずにある人物の権利が侵害されれば、当事者は抵抗することが可能であり、また第三者であっても制裁を加えることが可能である。この状態を戦争状態にあるとする。

エデッサの戦い(260年)

シャープール1世、ローマ皇帝を捕虜にする ついで260年、エデッサの戦いでローマ皇帝ウァレリアヌスを捕虜にしてローマに屈辱を与えた。エデッサはユーフラテス川上流にあり、現在のトルコの東部の地。ローマ帝国はこの地を拠点とし、サーサーン朝と抗争を繰り返していた。シャープール1世はこの勝利を記念して、アケメネス朝歴代の王墓のふもとに、堂々たる騎乗のシャープール1世にむかってひざまずき、命乞いをするウァレリアヌス帝を描いた浮き彫りを造らせた。

小田原征伐(1590年)

開戦までの経過 後北条氏側は関東諸豪制圧の頃から秀吉の影を感じ始めていたと言われ、その頃から万が一の時に備えて15歳から70歳の男子を対象にした徴兵や、大砲鋳造のために寺の鐘を供出させたりするなど戦闘体制を整えていた。また、ある程度豊臣軍の展開や戦略を予測しており、それに対応して小田原城の拡大修築や八王子城、山中城、韮山城などの築城を進めた。また、それらにつながる城砦の整備も箱根山方面を中心に進んでいった。

清兵衛と瓢箪(1913年)

冒頭 これは清兵衛と言う子供と瓢箪との話である。この出来事以来清兵衛と瓢箪とは縁が断れてしまったが、まもなく清兵衛には瓢箪に代わる物ができた。それは絵を描くことで、彼はかつて瓢箪に熱中したように今はそれに熱中している…

白村江の戦い(663年)

古代日本の復員兵 日本の奈良時代の史料『続日本紀』には、白村江の戦いから約40年たった、704年5月26日、唐の捕虜になっていた日本兵3人が、遣唐使の帰国に際して許されて帰国したという記事がある。太平洋戦争中にグアム島で27年ぶりに発見された横井庄一さんや、ルバング島の小野田寛郎さんたちは捕虜になったわけではないが、戦争は今も昔も同じような境遇の人間をつくってしまうわけだ。

承久の乱(1221年)

背景 後鳥羽上皇は多芸多才で『新古今和歌集』を自ら撰するなど学芸に優れるだけでなく、武芸にも通じ狩猟を好む異色の天皇であった。それまでの北面武士に加えて西面武士を設置し、軍事力の強化を図った。後鳥羽上皇の財源は長講堂領、八乗院領などの諸国に置かれた膨大な荘園群にあった。ところが、これらの荘園の多くに幕府の地頭が置かれるようになると、しばしば年貢の未納などが起こり、荘園領主である後鳥羽上皇やその近臣と紛争を起こすようになった。

足尾鉱毒事件(1891年)

経緯~鉱毒公害の発生~ 鉱毒ガスやそれによる酸性雨はより足尾町近辺の山は禿山となったのである。木を失い土壌を喪失した土地は次々と崩れていった。この崩壊は21世紀となった現在も続いている。崩れた土砂は渡良瀬川を流れ、下流で堆積した。このため、渡良瀬川は足利市付近で天井川となり、足尾の山林の荒廃とともにカスリーン台風襲来時は洪水の主原因となった。

日露戦争(1904年~1905年)

戦争の経過 1904年2月に開戦、ほぼ1年かかってロシア軍の旅順要塞を占領し、1905年3月の奉天会戦で大勝し、5月の日本海海戦ではロシアのバルチック艦隊を破った。すでに1905年1月に血の日曜日事件を機に第1次ロシア革命が起こっていたロシアは戦争継続が困難となり、日本もこれ以上の戦線の拡大と戦争の長期化は国力の限界を超えるおそれがあったため、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの仲介で、同1905年9月5日、ポーツマス条約を締結し講和した。

日清修好条規(1871年)

対等な条約内容 ・相互に外交使節を常駐させること。 ・領事裁判権を相互に承認すること。 ・領土に関しては「両国に属したる邦土もおのおの礼をもって相まち、いささかも侵越することなく、永久安全を得せしむべし」と定めた。

一ノ谷の戦い(1184年)

合戦の経過~前哨戦~ 2月6日、福原で清盛の法要を営んでいた平氏一門へ後白河法皇からの使者が訪れ、和平を勧告し、源平は交戦しないよう命じた。平氏一門がこれを信用してしまい、警戒を緩めたことが一ノ谷の戦いの勝敗を決したとの説がある。

平治の乱(1160年)

背景~信西の執政~ 1156年の保元の乱に勝利した後白河天皇は、同年閏9月に『保元新制』と呼ばれる代替わり新制を発令した。「九州の地は一人の有なり。王命の外、何ぞ私威を施さん」と王土思想を強く宣言したこの新制は、荘園整理令を主たる内容としていた。鳥羽院政期は全国に多くの荘園が形成され、各地で国務の遂行をめぐって紛争が起きていた。この荘園整理令はその混乱を収拾して、全国の荘園・国衙領、公領を天皇の統治下に置くことを意図したものであり、荘園公領制の成立への大きな契機となった新制と評価されている。その国政改革を立案・推進したのが、後白河の側近である信西であった。

サン=ベルナール峠を越えるボナパルト(1801年~1805年)

5枚の絵の経歴 原画は1812年までマドリードにあったが、ナポレオンの兄ジョゼフ・ボナパルトがスペイン王を廃位されたときに撤去された。アメリカ亡命に際してジョゼフはこの絵を持ち運び、ニュージャージー州ボーデンタウンのポイント・ブリーズ邸に掛けていた。作品は子孫に受け継がれ、1949年、曾孫のウジェニー・ボナパルト死去に際してマルメゾン城の美術館に寄贈された。

モナ・リザ(1503年~1519年)

来歴 レオナルド・ダ・ヴィンチがフィレンツェで『モナ・リザ』の制作を開始したのは1503年から1504年である。レオナルドと同時代人のジョルジョ・ヴァザーリは「制作に4年を費やしたが、結局未完に終わった」と記している。晩年のレオナルドは「ただの1作も完成させることができなかった」ともいわれている。

ボストン茶会事件(1773年)

アメリカ独立戦争に点火 1773年12月のボストン茶会事件では「くだばれ、茶!」という歌が生まれ、それはたちまち13植民地にひろがった。そして、茶を飲まずにコーヒーを飲むことが一斉に流行った。茶会事件に対する報復としてイギリス本国はボストン港を封鎖し、さらに強圧的諸条令を制定して植民地側を屈服させようとした。反発した植民地側は再びイギリス製品の不買運動などに立ち上がり、1774年9月にフィラデルフィアで大陸会議を開催して13植民地の代表が集まり、本国との対立は決定的となって、1775年のアメリカ独立戦争が始まる。このようにボストン茶会事件は、アメリカ独立戦争勃発の引き金となった事件であった。

蜘蛛の糸(1918年)

冒頭 ある日の事でございます。御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。極楽は丁度朝なのでございましょう。

鉄砲伝来(1543年)

種子島への伝来~ポルトガルから伝来したことの意義~ ヨーロッパでは、マルコ・ポーロが『東方見聞録』で「黄金の国ジパング」という名で日本国の存在を伝えて以降、その未知の島は旧来のヨーロッパに伝わる宝島伝説と結び付けられ、多くの人の関心を惹きつけた。しかし、この東洋の未知の島はその後約250年に渡って未知の島であり続け、天文年間にポルトガル人によってその発見が成されるまで、ヨーロッパで発行される世界地図や地球儀の太平洋上をあちらこちらへと浮動しながら描かれた。

慈照寺(1490年)

東求堂 東求堂は一重入母屋造、檜皮葺で、1486年の建立である。軒は疎垂木、組物は舟肘木を用いる。義政の持仏堂として建立されたものであるが、様式的には住宅建築の要素が強い。

宇治川の戦い(1184年)

巴御前の最後 義仲挙兵時から従って来た女武者、巴御前の最後は、軍記物語『平家物語』の『覚一本』で「木曾最期」の章段などで描かれており、宇治川の戦いに敗れ落ち延びる義仲に従い、最後の7騎、5騎になっても討たれなかったという。義仲は「お前は女であるからどこへでも逃れて行け。自分は討ち死にする覚悟だから、最後に女を連れていたなどと言われるのはよろしくない」と巴を落ち延びさせようとする。巴はなおも落ちようとしなかったが、再三言われたので「最後のいくさしてみせ奉らん」と言い、大力と評判の敵将・御田八郎師重が現れると、馬を押し並べて引き落とし、首を切った。その後巴は鎧・甲を脱ぎ捨てて東国の方へ落ち延びた所で物語から姿を消した。

唐獅子図屏風(16世紀)

概要 1582年に秀吉が本能寺の変を聞きつけ畿内に戻るため、高松城で急遽結んだ講和の際、その証として毛利輝元に贈った陣屋屏風との伝承がある。しかし、それを裏付ける史料は一切ない。

風神雷神図屏風(1624年)

俵屋宗達の屏風画 国宝。2曲1双。紙本金地着色。建仁寺蔵。落款、印章はないが、宗達の真筆であることは確実視されている。製作年については17世紀前半の寛永年間、宗達最晩年の作とする説が有力だが、法橋印が無いことや、おおらかな線質が養源院の杉戸絵と共通することから1624年頃の作とする説もある。

桜田門外の変(1860年)

襲撃 3月3日の早朝、水戸浪士の一行は東海道品川宿の旅籠を出発した。一行は東海道に沿って進み、愛宕神社で待ち合わせた上で、桜田門外へ向かった。この日は明け方から季節外れの雪模様でもあり、一時は大きな牡丹雪が盛んに降り、辺りは真っ白になった。しかし、斬り合いの時刻には雨混じりの小雪で、やがて薄日が射した。

フェートン号事件(1808年)

背景 1641年以降、欧州諸国のなかでネーデルラント連邦共和国のみが日本との通商を許され、長崎出島にオランダ東インド会社の商館が設置されていた。イギリスも江戸時代初期には平戸に商館を設置して対日貿易を行っていたが、オランダとの営業競争に敗れ経営不振のため1623年に長崎平戸の商館を閉館し、その後再開を試みるも江戸幕府に拒絶され続けていた。

若菜集(1897年)

初恋 まだあげ初めし前髪の林檎のもとに見えしとき前にさしたる花櫛の花ある君と思ひけりやさしく白き手をのべて林檎をわれにあたへしは薄紅の秋の実に人こひ初めしはじめなりわがこころなきためいきのその髪の毛にかかるときたのしき恋の盃を君が情けに酌みしかな林檎畑の樹の下におのづからなる細道は誰が踏みそめしたみぞと問ひたまふこそひしけれ

学制(1872年)

学区 「学制」はフランスの学制になって学区制をとっている。第3章で全国を8の大学区に分け8大学校の、1大学区を32中学区にわけ256中学校の、1中学区を210小学校区にわけ53760小学校を置くことを定めた。翌年に改正され、大学区は7大学区に改められて実施された。

ブクサールの戦い(1764年)

イギリス東インド会社軍の勝利~ベンガルの徴税権の獲得~ その結果ムガル帝国の皇帝は実権を失い、東インド会社から年金を支給される存在となった。また翌65年、東インド会社はベンガル・ビハール・オリッサのディーワーニーを認められた。プラッシーの戦い、ブクサールの戦いでベンガル地方の勢力を武力制圧したイギリス東インド会社は、それによってベンガル地方の徴税権を獲得し、徴税を等して政治的支配も行うこととなり、植民地支配を一歩進めた。東インド会社は単なる交易を行う商社ではなく、植民地統治機関へと変質することとなった。

タージ・マハル(1631年)

シャー・ジャハーンの悲劇 シャー・ジャハーンの晩年は不幸であった。愛妃ムムターズ・ケマルとの間に何人もの子供をもうけたが、その子どもたちでは成人した長男のダーラー・シコー、次男のシャー・シュジャー、それに三男のアウラングゼーブの三人が激しく帝位を巡って争った。その中で最も狡猾に立ち回ったのがアウラングゼーブであった。シャー・ジャハーン自身は病の床にあったが、アウラングゼーブは兄二人を巧妙に排除し、自分を支持しながら父をアーグラ城に幽閉してしまった。シャー・ジャハーンはアーグラ城の幽閉された部屋から、タージ・マハルを遠望しながら失意の晩年を過ごしたという。

ニハーヴァンドの戦い(642年)

642年という年 イスラーム勢力が、サーサーン朝ペルシアを破った歴史的戦いであるニハーヴァンドの戦いのあったとされる642年、この勝利によってイスラーム国家は、西アジア全域とエジプトを支配する大帝国となった。その後も小アジア、北アフリカではビザンツ帝国との抗争が続いた。なおこのころ、ヨーロッパのフランク王国ではメロヴィング朝の動揺が始まっていたが、ユーラシア大陸東部の唐は太宗のもとで興隆し、玄奘のインドへの大旅行が行われていた。日本では645年に大化改新が起こる。

ピラミッド(紀元前3千年紀)

エジプト古王国時代に造営 エジプトでは統一王朝の登場の頃からマスタバという日干し煉瓦を台状に積み上げたの墳墓が現れ、古王国時代の第3王朝で階段状のピラミッドが現れる。第3王朝第2代のファラオ、ジュセル王がサッカーラで造営した階段ピラミッドは日干し煉瓦でなく石材を積み上げ、東西125m、南北109m、高さ62mであった。これらの初期のピラミッドは王墓であり、地下に玄室が作られている。しかし、玄室を持たないものもあり、王の権威を示す象徴として作られたことも考えられる。第4王朝の初代スネフェル王は一人で3つのピラミッドを作っており、その一つは方錐形でのちのピラミッドと同じものが作られた。

ヴェルサイユ宮殿(1682年)

近現代史の舞台 フランス革命の勃発した1789年の10月、食糧高騰に激昂したパリの女性たちがヴェルサイユ宮殿まで行進し、国王に人権宣言への署名とパンの配給を迫り、ついには国王夫妻をパリに連れ戻すという、ヴェルサイユ行進という事件が起こった。その結果、国王は約100年ぶりにパリに戻った。

七年戦争(1754年~1763年)

対戦国 オーストリアとプロイセンの対立を軸に、外交革命によってまずフランスがオーストリアを支援、スペイン、ロシア、スウェーデンも同調した。イギリスは植民地でフランスと激しく対立していたので、プロイセン側についたが、兵力を割く余裕はなかった。そのためプロイセンは孤立した戦いを強いられた。

アンカラの戦い(1402年)

ティムールの勝因 アンカラの戦いでのティムールの勝因は、不利な場所での決戦を巧みに避け、オスマン軍に夏期の行動を強いたこと、事前にアナトリア諸侯から情報を得て根回しを終えていたためオスマン軍から離脱者が続出したことなどがあげられる。情報収集や事前工作など十分な準備はティムールの軍略の特徴で、彼は各地に間諜や協力者をおいていたという。情報収集には諸国を遍歴するスーフィズムの修行者も利用された。

ワーテルローの戦い(1815年)

背景~ナポレオンの帰還~ 1812年6月、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトは64万の大軍を率いてロシア遠征を開始するが、結果は兵力の大部分を失う惨敗に終わった。1813年、ナポレオン率いるフランス軍はドイツにおいてロシア、プロイセンを中心とする反仏諸国と解放戦争を戦うことになり、連合軍にスウェーデンそしてオーストリアが参加したことでナポレオンはこの戦いでも敗退した。1814年、フランス国内に侵攻する連合軍との戦いで劣勢な兵力のナポレオンは巧みな指揮ぶりを示して善戦するが、パリが開城したことで4月6日にナポレオンは退位を余儀なくされ、地中海のエルバ島に流された。

禁門の変(1864年)

戦前の経過 急進的な尊皇攘夷論を掲げ、京都政局を主導していた長州藩は、1863年に公武合体派である会津藩と薩摩藩らの主導による政変の結果、長州藩兵は任を解かれて京都を追放され、藩主の毛利慶親と子の毛利定広は国許への謹慎を命じられるなど、政治的な主導権を失った。一方、京や大坂に潜伏した数名の長州藩尊攘派は、失地回復を目指して行動を続けていた。

足利学校(1439年)

概要 場所は現在の栃木県足利市である。1872年に廃校になった後は組織としての存続はなく建物が残ったのみで、孔子廟などわずかな建物を残すのみとなった時代もあったが、再認識などにより、1990年に方丈や庭園が復元され公開された。その後は足利市の、心のよりどころ、生涯学習の拠点である、などとされ、教育委員会によって管理されている。

大坂城(1583年)

豊臣政権 1583年から羽柴秀吉によって築城が開始され、羽柴家の本拠地となった。一般には大坂城が豊臣政権の本拠地と解されるが、実際には1585年には秀吉は関白に任ぜられ、翌86年には関白としての政庁・居館として京都に聚楽第を建設して翌年の九州征伐からの帰還後はここに移り住み、更に関白を退いた後は京都の南郊に伏見城を築城して死ぬまで伏見において政務を執った。

枕草子(1001年)

春はあけぼの 春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎはすこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。夏は夜。月のころはさらなり、やみもなほ、蛍の多く飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし。秋は夕暮れ。夕日のさして山の端いと近うなりたるに、からすの寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへあはれなり。まいて雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆるはいとをかし。日入りはてて、風の音、虫の音など、はたいふべきにあらず。冬はつとめて。雪の降りたるはいふべきにもあらず、霜のいと白きも、またさらでもいと寒きに、火など急ぎおこして、炭もて渡るもいとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も白き灰がちになりてわろし。

石橋山の戦い(1180年)

背景 源頼朝の父源義朝は若年期坂東に下向し南坂東の豪族達に強い影響力を有していた。義朝は保元の乱、平治の乱で自らの勢威の及んでいた豪族と共に戦ったが、平治の乱で義朝は謀反人となり敗れて殺され、その三男の頼朝は伊豆国に流罪となった。