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天龍寺(1345年)

境内 境内東端に勅使門があり、参道は西へ伸びている。これは通常の禅宗寺院が原則として南を正面とし、南北に主要建物を並べるのとは異なっている。参道両側に塔頭が並び、正面に法堂、その奥に大方丈、小方丈、庫裏、多宝殿などがあるが、いずれも近代の再建である。

三十三間堂(1165年)

本堂~「三十三間」の由来と構造~ 三十三間堂の名称は、本堂が間面記法で「三十三間四面」となることに由来する。これは桁行三十三間の周囲四面に一間の庇を巡らせたという意味である。つまり柱間が33あるのは本堂の内陣であり、建物外部から見える柱間は35ある。正面に7間の向拝があるが、この区域は1649年から1651年頃の増築である。

平等院(1052年)

鳳凰堂建立の思想的・信仰的背景 『観無量寿経』の一節に「若欲至心生西方者、先当観於一丈六像在池水上」とある。鳳凰堂とその周囲の浄土式庭園は、『観無量寿経』の所説に基づき、西方極楽浄土とその教主である阿弥陀如来を観想するために造られたとするのが定説である。

ノートルダム大聖堂(13世紀)

歴史の中の大聖堂 フランス革命が進行すると、ジャコバン派独裁政権の中の最左派のエベールは非キリスト教化の一環として、キリスト教の神を否定して人間の理性を崇拝するという運動を起こし、1793年10月、ノートルダムを占拠して「理性の崇拝」の儀式を強行した。このとき、大聖堂の一部が壊されたり、略奪にあっている。しかし、フランス革命を終わらせ、軍事と政治で独裁権を握ったナポレオンは、1801年にローマ教皇とコンコルダートによって和解し、1804年5月にそのノートルダム大聖堂でナポレオン1世としての戴冠式を挙行した。

第一次ポエニ戦争(紀元前264年~紀元前241年)

シチリアを属州とする 第一次ポエニ戦争の結果、ローマはまずシチリア島の西部を中心として支配下に収め、前227年からはローマは総督を置いて統治し、ローマの海外に持った最初の属州とした。シチリア東部はシラクサの統治が認められていた。その後、カルタゴはイベリア半島に進出、ローマの支援を受けるギリシャ系都市マッサリアの勢力と衝突した。前226年、カルタゴとローマの間でエブロ条約が結ばれ、エブロ川をマッサリアとの勢力圏として合意した。

ペロポネソス戦争(紀元前431年~紀元前404年)

アテネとスパルタの戦い~開戦~ 前431年、スパルタ王アルキダモスの率いるペロポネソス同盟軍がアテネの本拠アッティカ地方に侵入して長い戦争が始まった。守勢に立ったアテネでは周辺の住民もアテネ市内に籠城し、ペリクレスは海軍力で反撃しようとする。開戦1年目、ペリクレスはこの戦いをポリス民主政を守る重大な戦いだと市民に訴える大演説を行った。しかしその年、アテネは想定外の疫病が蔓延、翌429年までに人口の3分の1が失われてしまう。ペリクレスは将軍職を罷免され、二人の息子も疫病で亡くし、自らも倒れてしまう。

享保の改革(1716年)

幕府権力の確立 吉宗は綱吉以来、譜代から不満を持たれていた側用人を廃止して、表向き老中による幕閣政治に重きを置いたように振舞った。しかし実際は御側御用取次を新設して元紀州藩士をそれに任じて実質上の側近政治を展開した。吉宗は御三家である紀州藩から将軍家を相続する際、多数の紀州藩士の幕臣として編入させていた。その数は1725年には205名にもおよんだ。これは紀州藩上士の約25%に相当する。吉宗は紀州系の側近たちを中心として従来の幕府のしきたりに囚われない大胆な政治改革を断行した。

武家諸法度(1615年)

各法令~元和令~ 最初の発布であり、公式には秀忠の命となっているが、実質的には徳川家康が発布者だったと考えられている。内容としては、一般的な規範や、既に慣習として成立していた幕命などを基本法として新たにまとめ、明文化したものである。

幕藩体制(1590年、1603年)

概要 江戸幕府を全ての武士の頂点とし、最高の統治機関としながらも、藩を形成していることと、米などを現物で納めさせて年貢とする石高制をその基礎に置いていることが特徴である。諸大名を親藩、譜代大名、外様大名に分け、参勤交代や改易によってこれを統制した。また、職分の区分けによって、武士を一部の権利を持つ階級に位置づけた。

長唄(1704年)

江戸長唄 江戸長唄は義太夫節など語りを中心とした「語り物」とは異なり、唄を中心とした「歌い物」、「うたもの」である。演奏は基本的に複数人の唄と三味線で成り立っているが、曲目によっては小鼓、大鼓、太鼓、笛などで構成される「お囃子」が付くこともある。また、通常の三味線パートのほかに「上調子」と呼ばれる三味線パートを持つ曲も存在する。

二条城(1603年~1873年)

織田信長・誠仁親王の「二条新御所」 信長は1576年4月に京に滞在した際、二条通南側の妙覚寺に宿泊したが、寺の東側に隣接する公家の二条家の邸宅の庭の眺望を気に入った。二条邸は当時、「洛中洛外図屏風」に必ず描かれるほどの名邸であった。前従者の二条晴良・昭実父子は直前に信長のはからいにより報恩寺の新邸に移徙して空き家となっていたので、信長が上洛した時の宿所とするため、この旧二条邸を譲り受けて、「二条殿御構へ」の普請を京都所司代の村井貞勝に命じた。

太閤検地(1582年)

特徴~土地の権利関係~ 戦国時代の日本では、個々の農民が直接領主に年貢を納めるのではなく、農民たちは「村」という団体として領主に年貢を納めることがほとんどであった。この体制では1つの村が複数の領主に年貢を納めていたり、農民が有力農民に年貢を納め、そこからさらに領主に年貢が納められるといった複雑な権利関係が存在した。

正倉院(756年)

正倉院宝物 756年6月21日、光明皇太后は夫である聖武太上天皇の七十忌に際して、天皇遺愛の品約650点、及び60種の薬物を東大寺の廬舎那仏に奉献したのが始まりである。光明皇太后はその後も3度にわたって自身や聖武天皇ゆかりの品を大仏に奉献し、これらの献納品は正倉院に納められた。献納品目録である『東大寺献物帳』も正倉院に保管されている。献物帳は五巻からなり、それぞれ『国家珍宝帳』、『種々薬帳』、『屛風花氈等帳』、『大小王真跡帳』、『藤原公真跡屛風帳』と通称されている。

黄熱病(1918年)

予防接種 流行地域や流行可能地域は、出入国管理に際して国家機関発行による国際予防接種証明書が求められる。かつて、イエローカードの有効期間は、接種10日後から10年間とされてきたが、世界保健機関は、2016年7月11日より、生涯有効に延長することを勧告した。

法隆寺金堂壁画(7世紀後半~8世紀初め)

壁画の存在~外陣壁画~ 法隆寺金堂初層は外陣が正面5間、側面4間、内陣が正面3間、側面2間である。ここでいう「間」は長さの単位ではなく柱間の数を表す建築用語であり、「5間」とは柱が1列に6本並び、柱間が5つあるという意味である。外陣の周囲には裳階と呼ばれる廂部分があり、一般拝観者が立ち入りを許されるのはこの裳階部分である。外陣の正面5間のうち中央の3間、背面の中央間、両側面のそれぞれ北から2間目、以上6面の柱間には扉が設けられ、残りの12面を土壁とし、ここに壁画が描かれていた。

中尊寺金色堂(1124年)

仏像 上述のとおり、金色堂内の中央壇、右壇、左壇に安置された仏像群の配置は当初のままではなく、後世に一部が入れ替わっている。諸像の国宝指定時の文化庁の解説によると、仏像群の本来の組み合わせと配置は以下のように考えられている。

生類憐れみの令(1685年)

政策開始の理由 1687年10月10日の町触では、綱吉が「人々が仁心を育むように」と思って生類憐れみの政策を打ち出していると説明されている。また1691年には老中が諸役人に対して同じ説明を行っている。儒教を尊んだ綱吉は将軍襲位直後から、仁政を理由として鷹狩に関する儀礼を大幅に縮小し、自らも鷹狩を行わないことを決めている。

十二単(平安時代後期)

概要 十二単は20キログラム程あり、四季に応じた名称の「かさね」を用いた。また、宮中では女性の「束帯」に当たる装束として「物具装束」が平安後期まで存在したが、女性が公儀の場に出るのを嫌う風潮もあって、着用される機会が減り廃れた。

ギリシャ独立戦争(1814年~1833年)

神聖同盟の足並み乱れる しかし、ギリシャ独立運動を巡る国際社会は必ずしも独立戦争にとっても好都合ではなかった。ウィーンの体制のもとで、オーストリアのメッテルニヒは自由主義・民族主義の高揚に危機を感じ、独立に反対、神聖同盟も独立に反対を表明した。オスマン帝国はエジプトのムハンマド・アリーの支援をうけて独立運動を抑えにかかり、アテネを占領し、独立軍は苦戦となった。

フロンティア(19世紀)

フロンティア・スピリット この西部開拓を進めたアメリカ人の中に芽生えた、自然の脅威やインディアンの抵抗などにもめげずに、独立独歩で自己の生活基盤を築いていくという精神は、フロンティア・スピリットつまり「開拓者魂」と言われ、一つのアメリカ人の像を造ることとなった。

神曲(13世紀~14世紀)

トスカーナ地方の口語で書く 描かれている内容は、中世的な世界観、迷信の域を出ていないが、重要なことはこの作品がトスカーナ地方の口語で書かれたことであった。ダンテは、『俗語論』という論文も残しており、そこでもラテン語はすでに死後になったことを確認し、口語すなわち話し言葉が方言のまま洗練されずにいることを懸念し、美しい「国語」に高める必要がある、そのためには国民的統一が必要であると主張している。この思想がイタリア語の形成の第一歩となった。

黒死病(1346年~1353年)

14世紀の大流行 1346年から47年にかけて、コンスタンティノープルから地中海各地に広がった疫病の流行は、マルセイユ、ヴェネツィアに上陸、1348年にはアヴィニョン、4月にはフィレンツェ、11月にロンドンへと西ヨーロッパ各地に広がり、翌年には北欧からポーランドに、1351年にはロシアに達した。発病すると高熱を出し、最後は体中に黒い斑点が出来て死んでいくので「黒死病」と言われた。恐ろしい伝染力を持つこの疫病は、現在ではペストと考えられている。

紫禁城(1407年~1420年)

清朝の皇帝たちと紫禁城 紫禁城は明の永楽帝の時に造営されたが、その後火災や明末の動乱で荒廃したものを、清の順治帝が入城して以来の歴代の清朝皇帝によって再建された姿が現在見ることが出来る。1644年、順治帝が紫禁城に入城したときはわずか6歳であったので、実権は叔父のドルゴンであった。ドルゴンは紫禁城を修築するにあたり、国家的儀式の場である奉天殿、華蓋殿、謹身殿を太和殿、中和殿、保和殿に改め、その正面に掲げた殿額の従来の漢字の左、すなわち上位に「ワラビ字」と俗称される満州文字を並べ、紫禁城の主人が誰であるかを雄弁に語らせた。

万里の長城(前214年)

長城の放棄と南北朝時代の復活 しかしこの長城も8年に建国された新王朝期の混乱によって大打撃を受け、25年に後漢が建国されたころにはかなり荒廃した状態となっていた。光武帝期にはやや復興の兆しがあったものの、結局のところ維持ができず、後漢の半ばごろには長城は放棄されてしまった。その後、三国時代や五胡十六国時代には北方異民族の力が強くなり頻繁に侵入が繰り返されたものの、中原の諸王朝に長城を維持する国力はなく、長城防衛は放棄されたままだった。

閑谷学校(1670年~1673年)

池田治政の時代以後 一時衰退していた閑谷学校は、5代目藩主の池田治政の時代に再び活気を取り戻す。1847年、学房より出火して、共感宿舎や客宿舎などが消失した。幕末の混乱期においても、多くの子供が学問にはげんでいた。

湯島聖堂(1690年)

史跡指定と文化財保護 公益上必要やむを得ない場合を除き、聖堂跡地の現状変更を許可しないものとして、1922年3月8日、敷地が国の史跡に指定された。指定名称は「湯島聖堂」である。1956年4月18日には、文化財保護委員会により財団法人斯文会が史跡の管理団体に指定された。1986年度より文化庁による建物の保存修理工事が行われ、1993年3月に竣工した。

公事方御定書(1742年)

影響 また極秘裏に諸藩でも写本が流布し、その内容を把握して自藩の法令制定の参照とした。その為、本来幕府領内でのみ効力を有する法が、ある種、日本国内統一法のようなものでもあったが、次第に「祖法」化し、御定書制定の翌年1743年には実質的に廃止されたはずの田畑永代売買禁止令が、御定書に載せられていたために有効な法律とされ、1871年まで存続するなどの弊害もあった。

伏見城(1592年~1623年)

徳川家康時代 豊臣秀吉の遺言により豊臣秀頼は翌1599年正月に大坂城へ移り、五大老の一人である前田利家が同年3月に病死、徳川家康は石田三成を同年3月10日に佐和山城へ追放すると、同年3月13日に留守居役として入城する。その徳川家康も同年9月には大坂城に移った。この時の様子を、「諸大名悉く大阪へ家居以下引越された候、伏見の儀は荒野に罷り成る可き躰に候」と島津義弘は伝えている。徳川家康が大坂城に移ると伏見にあった大名屋敷のほとんどが大坂に移ってしまい、伏見城の城下町は荒廃していく様子が記されている。

楽市・楽座(1567年、1577年)

欠点 この時期に問屋業者が増え、店自体の売上が均一化し、多くのぬけ荷品が闇市場に並ぶといった所があげられる。それらの欠点は豊臣秀吉時代の末期には露呈した。また、領主と特定の商人が関係を結んで御用商人化し、領主の命令を受けて座に代わって市場の支配権を得る例も見られた。これらは欠点と言うよりは規制緩和としての楽市楽座が不完全であったこと、また楽市楽座が相当な利益を商人にもたらし、制度としてのインセンティブ設計が成熟していなかったことを意味する。

玉虫厨子(飛鳥時代)

絵画 宮殿部正面扉には向かい合って立つ2体の武装神将像を描き、左右扉には各2体の菩薩立像を描く。宮殿部背面に描かれるのは霊鷲山浄土図で、中央に3基の宝塔とその中に坐す仏、その下に岩窟中に坐す4体の羅漢像を描く。これらの左右には日月、飛翔する2体の天人、2体の鳳凰などを描く。