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分国法(1556年)

分国法一覧 大内家壁書、相良氏法度、今川仮名目録、塵芥集、甲州法度次第、結城氏新法度、新加制式、六角氏式目、長宗我部元親百箇条

太平天国の乱(1851年~1864年)

戦線の拡大 太平天国軍はさらに北上し、浙江省、江蘇省を占領、一部は貴州、四川まで侵入した。北伐軍は一時北京近傍にまで迫り、北京はパニックに陥ったが、太平軍の補給線がのびたため北京攻略は出来ず、かえって全滅した。また西征軍は石達開に率いられ、曽国藩の湘軍を何度も破り善戦したが、決定的勝利は得られなかった。

安史の乱(755年~763年)

安史の乱の原因と経過 乱の直接原因は、唐の玄宗の寵愛を受けた楊貴妃とそのおいの楊国忠一族と対立した節度安禄山が、楊氏一族の排除を掲げて反乱を起こしたことであったが、背景には唐の律令制度の行き詰まりという社会不安があった。以下、一言で安史の乱と云っても足かけ9年に及んだ大乱であり、途中経過も見ておいた方がよいので、その概略を示す。結果だけを知りたい人、先を急ぐ人は読み飛ばして下さい。

甲州征伐(1582年)

天目山の戦い 3月7日に織田信忠は甲府に入り、一条蔵人の私宅に陣を構えて勝頼の一門・親類や重臣を探し出し、これを全て処刑した。この時に処刑されたのは武田信友・諏訪頼重・武田信廉らである。『信長公記』では親族衆の一条信龍の名も記されているが、『家忠日記』によれば、信龍は3月10日に徳川家康を先導した穴山信君に対応するため市川へ着陣しており、同日に本拠の上野城が降伏し、子息の信就とともに処刑されたとされる。

糸割符制度(1604年)

概要 江戸時代初期、日本において最も重要な輸入品は、中国産の生糸であった。だが、生糸の輸入に関し外国商人が値段決定の主導権を有して利益を独占していたため、これを抑える必要があった。一方、外国商人側も朝鮮出兵の失敗や関ヶ原の戦いの影響によって生じた日本の国内経済の混乱による販売不振に悩まされていた。

金本位制(1897年)

均衡のプロセス 金本位制には、国際収支を均衡させる結果があると考えられている。複数の国が存在していて、それらの国が金本位制を採用している場合、流通している通貨が異なっても事実上「金」が世界共通の通貨であることになる。

ノルマントン号事件(1886年)

刑事裁判罪 社交場鹿鳴館での舞踏会をはじめとする欧化政策によって条約改正交渉を進めていた井上外相も沸騰する国内世論を黙止することができず、11月13日、内海忠勝兵庫県知事に命じてドレーク船長らの神戸出船をおさえ、兵庫県知事名で横浜英国領事裁判所に殺人罪で告訴させた。告訴は翌14日におこなわれた。これに対し、イギリス側は神戸で予審をおこない、ついで横浜に場をうつした。12月8日、横浜領事裁判所判事のニコラス・ハンネンはドレークに有罪判決を下し、禁固刑3か月に処したが、死者への賠償金は支払われなかった。

南総里見八犬伝(1814年~1842年)

八つの霊玉 仙翁から伏姫に譲られた水晶の数珠。108つの玉の内の8つの大玉で、「仁義礼智忠信孝悌」と現れていたが、八房が伏姫を恋い慕うようになってからは「如是畜生発菩提心」の8文字がひとつずつ浮かぶようになった。伏姫の自害に伴って数珠が飛散する際にそれぞれの玉の文字が「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」と変わったものである。残りの100個の小玉は繋ぎなおされて、大大法師が数珠として常に携帯している。八犬士同士の距離が近づくと感応しあってその存在を教え、肉体的な傷や病気の治療を早める力を持っている。元は儒教で説かれる5つの徳目、五常に忠・孝・悌を足した教えが元となっている。

龍安寺(1450年)

石庭 幅25メートル、奥行10メートルほどの空間に白砂を敷き詰め、東から5個、2個、3個、2個、3個の合わせて15の大小の石を配置する。これらの石は3種類に大別できる。各所にある比較的大きな4石はチャートと呼ばれる龍安寺裏山から西山一帯に多い山石の地石。塀ぎわの細長い石他2石は京都府丹波あたりの山石。その他の9石は三波川変成帯で見られる緑色片岩である。

応仁の乱(1467年~1477年)

管領細川勝元と畠山義就の対立 翌1455年4月12日に畠山持国は死去し、畠山義就が畠山氏の家督を相続した。義就は弥三郎派の勢力を一掃するため、領国内で活発な弾圧を行った。この最中、義就は義政の上意と称して軍事行動を行ったため、義政の信任を次第に失った。さらに義就は勝元の所領である山城国木津を攻撃、細川勝元は弥三郎を擁立することで義就の追い落としを計画した。一方で山名宗全は、1458年に赦免され、同年に義就と共に八幡神人討伐に参陣した頃から親義就派となっていった。1459年には弥三郎が赦免され、上洛を果たしたがまもなく死去。代わって政長が勝元と弥三郎派の家臣団に擁立された。

鹿苑寺(1397年)

舎利殿~建築形式と間取り~ 初層は「法水院」と称し、正面の一間通りを吹き放しの広縁とし、その奥は正面5間、側面3間の1室とする。正面の5間は等間ではなく、西から2間目の柱間が他より広くなっている。この室の正面は5間とも土壁である。以上の土壁には腰貫を通す。うち、北面の腰貫は建物の外側から見えるが、東・西面の腰貫は室内側にしか現れない。

賤ヶ岳の戦い(1583年)

合戦~勝家の敗走~ ところがこの激戦の最中、茂山に布陣していた柴田側の前田利家の軍勢が突如として戦線離脱した。これにより後方の守りの陣形が崩れ佐久間隊の兵の士気が下がり、柴田軍全体の士気も一気に下がった。これは秀吉の勧誘に利家が早くから応じていたからではないかと推測される。このため利家と対峙していた軍勢が柴田勢への攻撃に加わった。さらに柴田側の不破勝光・金森長近の軍勢も退却したため、佐久間盛政の軍を撃破した秀吉の軍勢は柴田勝家本隊に殺到した。多勢に無勢の状況を支えきれず勝家の軍勢は崩れ、ついに勝家は越前・北ノ庄城に向けて退却した。

伊勢神宮(垂仁天皇26年、雄略天皇22年)

創祀~考証~ 津田左右吉の研究以来、歴史学においては『古事記』や『日本書紀』の応神天皇条以前の記述はほぼ史実として認められておらず、上述の神話の伝承も、歴史的事実とは考えられていない。そのため、これまでに多くの研究者が、複数の学術分野から伊勢神宮の史実上の創祀年代について検討してきた。他方で、『日本書紀』の神宮創祀伝承の箇所の異伝に、神宮の創始を「丁巳年」と記していることについて、伝承の内容は史実でなくとも、干支に関しては実際の創祀年がそのまま記述された可能性が高いとして、丁巳に該当する西暦年の中から、最も可能性が高いと考えられる年号を伊勢神宮の創祀年と想定する見解も複数示された。

雨ニモマケズ(1931年)

全文 雨ニモマケズ風ニモマケズ雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ慾ハナク決シテ瞋ラズイツモシヅカニワラッテヰル一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベアラユルコトヲジブンヲカンジョウニ入レズニヨクミキキシワカリソシテワスレズ野原ノ松ノ林ノ蔭ノ小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ南ニ死ニサウナ人アレバ行ッテコハガラナクテモイイトイヒ北ニケンクヮヤソショウガアレバツマラナイカラヤメロトイヒヒデリノトキハナミダヲナガシサムサノナツハオロオロアルキミンナニデクノボートヨバレホメラレモセズクニモサレズサウイフモノニワタシハナリタイ

平家物語(1221年)

祇園精舎 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

富岡製糸場(1872年)

官営時代 富岡製糸場は、1872年11月4日に官営模範工場の一つとして操業を開始した。ただし、当初は工女不足から210人あまり工女たちで全体の半分の繰糸器を使って操業するにとどまった。翌年1月の時点で入場していた工女は404人で、主に旧士族などの娘が集められていた。同年4月に就業していた工女は556人となり、4月入場者には『富岡日記』で知られる和田英も含まれていた。

松下村塾(1857年)

変遷 1858年、松陰が野山獄に再投獄され、また幕末動乱期に至って塾生の多くが地元を離れたため中絶した。1866年にいったん再開し、馬島甫仙、河合惣太等が教授にあたる。1871年より再度玉木文之進が塾頭となり、塾の場所を自宅に移した。以後の塾舎として使われた玉木文之進の旧宅もまた、萩市内に保存されている。

大政奉還(1867年)

大政奉還の成立 大政奉還は討幕派の機先を制し、討幕の名目を奪う狙いがあったものの、上表は薩摩藩からの最大の関心事であった将軍職辞任には一切触れておらず、なお慶喜は武家の棟梁としての地位を失っていなかった。10月14日、慶喜は小松清廉に対し、辞職を表明すれば家臣たちが不服を抱くであろうと述べている。しかし小松が辞職するべきだと進言したこともあり、慶喜は10月24日に征夷大将軍辞職も朝廷に申し出る。

フランス第一帝政(1804年~1815年)

ナポレオンの絶頂 1805年、ナポレオンはウルム戦役にて、イギリスをにらんでブローニュに集結していたフランス陸軍を対墺露戦に投入すべくライン川方面へ進軍させ、ウルムのオーストリア軍を降伏させた。その後フランス軍はすぐさまウィーンを陥落させると、更にアウステルリッツへ進軍し、オーストリア・ロシア連合軍と衝突した。これがアウステルリッツの戦いである。神聖ローマ皇帝のフランツ2世はナポレオンに降伏した。更に翌年、ナポレオンは神聖ローマ帝国を解体し、西南ドイツ諸邦の連合体で、親仏、親ナポレオンのライン同盟を成立させた。「ドイツ皇帝」たる要件を喪失したフランツ2世は、神聖ローマ皇帝の位から退いて「オーストリア皇帝」フランツ1世となった。

ロンドン万国博覧会(1851年)

概要 万国産業製作品大博覧会はアルバート公、ヘンリー・コール、フランシス・フラーそして芸術・工業・商業振興のための王立協会の他のメンバーによって、近代の工業技術とデザインの祝典として組織された。ロンドン万国博覧会が大きな成功を収めた1844年のフランス工業博覧会を受けて組織されたものかどうかは議論されるところである。ヴィクトリア女王の夫であるアルバート公は、自ら融資したこの博覧会の熱心なプロモーターであった。大規模な博覧会を主催する確固とした実行力を築くため、政府に働きかけて1851年博覧会王立委員会を結成させた。

ウィーン会議(1814年~1815年)

基本原則 大国による「勢力均衡」と「正統主義」がウィーン会議の基本原則であった。正統主義とは、フランス革命・ナポレオン戦争によって混乱したヨーロッパにおいて、それ以前の「正統な」統治者を復位させ、旧体制を復活させることを目指した理念である。この理念は、フランス代表タレーランによって主張され、国内に多くの民族を抱えるオーストリア帝国の外相メッテルニヒが支持した。

コーヒー・ハウス(17世紀半~18世紀)

コーヒー・ハウスの図 右上は当時のロンドンのコーヒー・ハウスである。現代の喫茶店と異なり、個別の客席ではなく、まん中のテーブルを囲んで議論している様子がわかる。つまり、社交場であった。左手にコーヒー・ハウスを煎れている人物と給仕らしい人物が描かれている。しかし、現代の喫茶店と決定的な違いはほかにある。それは何でしょう?答えはページの最後に。

坊つちゃん(1906年)

冒頭 親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃したからである。小使に負ぶさって帰って来た時、おやじが大きな眼をして二階ぐらいから飛び降りて腰を抜かす奴があるかと云ったから、この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。

出島(1634年)

鎖国 1638年の春に幕府は、島原半島と天草諸島のキリシタンの百姓が起こした島原の乱を鎮圧した。それ以降幕府は、キリシタンの摘発をより強化し、禁教の徹底のためにカトリック国であるポルトガルとの関係を断絶しようとした。しかし、現実には、ポルトガルがマカオからもたらす中国産の生糸などが当時の日本にとって必要不可欠であり、オランダ東インド会社への信頼に不安を感じていたため、幕府は、1638年にはポルトガルとの貿易の断絶に踏み切れず、その代わり、マカオから江戸に派遣されたカピタン・モールの将軍への謁見を拒否するだけにとどまった。

奥の細道(1702年)

 冒頭~出発まで~ 月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋、江上の破屋に蜘蛛の古巣をはらひて、やや年も暮れ、春立てる霞の空に白川の関越えんと、そぞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取るもの手につかず、股引の破れをつづり笠の緒付けかへて、三里に灸すうるより、松島の月まづ心にかかりて、住める方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、草の戸も住み替はる代ぞ雛の家表八句を庵の柱に懸け置く。

日清戦争(1894年~1895年)

展開期~黄海海戦~ 大本営の「作戦大方針」では、海軍が清の北洋艦隊掃討と制海権掌握を担うとされていた。しかし、持久戦と西洋列強の介入で講和に持ち込みたい李鴻章は、北洋艦隊の丁汝昌提督に対し、近海防御と戦力温存を指示していた。このため、海軍軍令部長樺山資紀海軍中将が西京丸で最前線の黄海まで偵察に出るなど、日本海軍は艦隊決戦の機会に中々恵まれなかった。

前九年の役(1051年~1062年)

黄海の戦い 頼義は同年9月朝廷に頼時戦死を報告するも、論功行賞を受けることができなかった。11月、頼義は再び陸奥国府から出撃した。この時の頼義の兵力は最大に見積もっても国衙の兵2,000名程度と、傘下の武士500名ほどであったと推測されている。

大日本帝国憲法(1889年~1890年)

私擬憲法 1874年からの「自由民権運動」において、さまざまな憲法私案が各地で盛んに執筆された。しかし、政府はこれらの私擬憲法を持ち寄り議論することなく、大日本帝国憲法を起草したため、憲法に直接反映されることはなかった。政府は国民の言論と政治運動を弾圧するため、1875年の讒謗律、新聞紙条例、1880年の集会条例などさまざまな法令を定めた。1887年の保安条例では、民権運動家は東京より退去を強いられ、これを拒んだ者を拘束した。

姫路城(1346年~1871年)

安土桃山時代 1600年、池田輝政が関ヶ原の戦いの戦功により三河吉田15万石から播磨52万石で入城した。輝政は徳川家康から豊臣恩顧の大名の多い西国を牽制する命を受けて1601年から8年掛けた大改修で姫山周辺の宿村・中村・国府寺村などを包括する広大な城郭を築いた。中堀は八町毎に門を置き、外堀からは城下と飾磨津を運河で結ぶ計画であったが輝政の死去と地形の高低差の問題を解決できず未完に終わる。運河計画は後の本多忠政の時代に船場川を改修して実現することになる。普請奉行は池田家家老の伊木長門守忠繁、大工棟梁は桜井源兵衛である。作業には在地の領民が駆り出され、築城に携わった人員は延べ4千万人 - 5千万人であろうと推定されている。また、姫路城の支城として播磨国内の明石城・赤穂城・三木城・利神城・龍野城・高砂城も整備された。

富嶽三十六景(1831年~1834年)

ベロ藍の使用 「ベロ藍」こと輸入化学染料プルシアン・ブルーを用いている点が特徴である。ベロ藍単色摺り及びベロ藍を主体とした作品も10図ある。

株仲間(1648年~1670年)

概要 当初は同業の問屋による私的な集団であり、江戸幕府は当初は楽市・楽座路線を継承した商業政策を方針としており、こうした組織が流通機構を支配して幕府に対する脅威になる事を恐れて、1648年から1670年にかけて6回もの禁令が出されるなど規制の対象としていた。

五稜郭(1866年~1869年)

箱館戦争 同年5月11日の新政府軍による箱館総攻撃の際には、五稜郭に備え付けた大砲で七重浜および箱館港方面に砲撃を行っている。しかし新政府軍に箱館市街を制圧され、翌12日以降、甲鉄が箱館港内から五稜郭に向けて艦砲射撃を行うと、奉行所に命中した砲弾により古屋佐久左衛門らが死傷。また、新政府軍は各所に陣地を築き、大砲を並べて砲撃した。猛烈な砲撃に旧幕府軍は夜も屋内で寝られず、また五稜郭には堡塁がなかったため、石垣や堤を盾にして畳を敷き、屏風を立ててかろうじて攻撃を凌ぐ有様だった。その後、5月15日に弁天台場が降伏、16日には千代ヶ岱陣屋が陥落し、新政府軍から五稜郭へ総攻撃開始が通知され、衆議を経て5月18日に榎本らが降伏、五稜郭では戦闘が行われることなく新政府軍に引き渡された。

アヘン戦争(1840年~1842年)

アヘン戦争と日本 アヘン戦争での清朝の敗北は、鎖国中の日本にも長崎出島に来港するオランダ船がもたらす情報で伝えられ、江戸幕府も知るところとなった。また琉球は薩摩藩に服属していたが、清にも服属する両属の関係にあったので、清への朝貢使節を通じてアヘン戦争情報は薩摩藩に伝えられ、薩摩藩から幕府に知らされた。幕府は1825年に異国船打払令を出していたが、清朝がイギリスに敗北したことを知って、1842年8月28日に薪水給与令をだし、対外強硬姿勢を改めている。同寺に、高島秋帆の西洋流砲術を採用し、江川太郎左衛門にそれを学ばせるなど軍備強化を図っている。また林則徐の友人の魏源の著作『海国図志』がいち早く輸入され広く読まれている。1853年のペリー来航からわずか11年前のことであった。

川中島の戦い(1553年~1564年)

第四次合戦~合戦の背景~ 北条氏康は、同盟者の武田信玄に援助を要請し、信玄はこれに応えて北信濃に侵攻。川中島に海津城を築き、景虎の背後を脅かした。やがて関東諸将の一部が勝手に撤兵するに及んで、景虎は小田原城の包囲を解いた。景虎は、相模国・鎌倉の鶴岡八幡宮で、上杉家家督相続と関東管領職就任の儀式を行い、名を上杉政虎と改めて越後国へ引き揚げた。

山崎の戦い(1582年)

合戦経過 両軍は12日頃から円明寺川を挟んで対陣する。羽柴軍は前夜に中川・高山ら摂津衆が山崎の集落を占拠し最前線に着陣、池田恒興らが右翼に、黒田孝高、羽柴秀長、神子田正治らが天王山山裾の旧西国街道に沿って布陣し、秀吉の本陣はさらに後方の宝積寺に置かれた。これに対して明智軍は御坊塚の光秀の本陣の前面に斎藤利三、阿閉貞征、河内衆、旧幕府衆らが東西に渡って防衛線を張るように布陣し、迎え撃つ構えを取った。当時の山崎には沼地が広がっていたため大軍が通過できるのは天王山と沼の間の狭い空間に限られ、明智軍がその出口に蓋をした形となっている。

プラッシーの戦い(1757年)

ミール・ジャアファルの裏切り ベンガル太守軍は数の上で圧倒的であったが、ちょうど雨期に当たり当日も雨であったので大砲を使えず、おまけに太守の参謀長がクライヴの働きかけで裏切ったため、太守軍は敗北し、太守は捕らえて殺害された。クライヴは新太守に裏切った参謀長ミール・ジャアファルを据えた。なおこの時の戦争で、東インド会社のクライヴは、初めて2000人のインド人兵士を傭兵として雇った。彼らはシパーヒーと言われ、会社の軍事力を支えることとなる。

三十年戦争(1618年~1648年)

三つの対立軸~第一の対立軸:旧教徒と新教徒の対立~ 1555年のアウクスブルクの和議でプロテスタントの信仰が認められたが、それは「領主の信仰、その地に行われる」のであって、領邦君主にとって信仰の自由であり、領民には信仰の自由はなかった。旧教を掲げる領邦は「同盟」を結成し、新教側は「連合」を結成していた。新教「連合」としてはベーメンの新教徒の反乱を支援せざるを得なかった。

御成敗式目(1232年)

内容 鎌倉幕府の基本法で、日本最初の武家法である。頼朝以来の先例や武家社会の道理を基準とし、御家人の権利義務や所領相続の規定が多い。「悔返権」・「年紀法」の規定は武家独自 の規定とされている。ただし、式目の適用は武家社会に限られ、朝廷の支配下では公家法、荘園領主の下では本所法が効力を持った。反対に幕府の支配下では公家法・本所法は適用されないものとして拒絶している。また、頼朝以来の先例・武家社会の道理を盾にして律令法・公家法と異なる規定、時にはこれと反する規定を積極的・かつ自立的に制定している点を評価して、御成敗式目を幕府法の独立を宣言したものとする解釈が通説となっている。

大航海時代(15世紀~17世紀)

大航海時代の変遷~アフリカ・アジア大陸進出~ 1509年2月、フランシスコ・デ・アルメイダは国王の命で遠征艦隊を率いてイスラム勢力と戦い、インドとの直接交易を獲得するに至った。ポルトガルは順調にマレー半島・セイロン島にも侵略、1557年にはマカオに要塞を築いて極東の拠点とした。その間、1543年にジャンク船に乗ったポルトガル人が日本の種子島に漂着して鉄砲を伝えている。

笛を吹く少年(1866年)

ファイフ 吹いている楽器は木製の横笛「ファイフ」で、絵の指づかいを真似て吹く「ソ」の音が鳴る。

バスティーユ襲撃(1789年)

襲撃 このような政治的緊張が続く中、国王政府は1789年の7月11日にはスイス人連隊、ドイツ人騎兵連隊、フランス衛兵隊からなる2万の兵をパリに集結させ、その武力を背景に、民衆の期待を集めていた財務総監ジャック・ネッケルを罷免した。これは王妃マリー・アントワネットや王弟アルトワ伯らの独断であった。国王はパリ国衆に対する武力鎮圧には消滅的であったが、もはや政府は強硬派で占められ、ルイ16世の意向が通らないほどになっていたのである。

南北戦争(1861年~1865年)

開戦 1860年11月の大統領選挙では奴隷制が争点のひとつになり、奴隷制の拡大に反対していた共和党のエイブラハム・リンカーンが当選した。この時点では、奴隷は個人の私有財産であることもあり、リンカーン自身は奴隷制廃止を宣言していなかったが、南部では不安が広がった。

千夜一夜物語(10世紀~15世紀)

アラジンと魔法のランプの物語 シナの若者アラジンは悪たれ小僧で、父親が死んでも十五歳になっても正業につかず、遊びほうけていた。家計は母親が細々と稼ぐ金で支えられ、生活は貧しかった。あるとき、マグリブ人の魔法使いが町にやってきて、父の弟であると偽ってアラジンに近づく。母親はそんな兄弟などいないと言うが、アラジンの仕事についてなにくれと相談にのってくれるため、徐々に信用するようになった。

神聖ローマ帝国(800年~1806年)

領域 帝国は当初、東フランク王のちローマ王兼イタリア王が皇帝に戴冠されて成立した。従ってその領域は東フランク、すなわち現在のドイツから北イタリアにまたがっていた。また9世紀末から10世紀にドイツ王に臣従していたボヘミアは1158年に大公から王国へ昇格し、帝国が消滅するまでその一部であり続ける。

関ヶ原の戦い(1600年)

決戦までの経緯~中央集権派と地方分権派~ 太閤検地の実施とそれにともなう諸大名領内への豊臣直轄領の設置や、大名内部で発生した諸問題への介入によって、豊臣政権による地方大名への支配力強化を進めようとする石田三成・増田長盛らの強硬・集権派と、これに反対する浅野長政らの宥和・分権派との対立が抗争の背景にあったとする説である。

水子貝塚(縄文時代前期)

水子貝塚公園 大規模な環状の貝塚と集落跡があり、これを再現する形で全体が整備された歴史公園で、「縄文ふれあい広場 水子貝塚公園」として1994年に開園した。園内には地表に白い陶片を用いて貝塚の規模や分布がわかるように表示されており、中央に大きな芝生広場を設け、5棟の竪穴式住居が復元されている。一部は内部が公開されており、そこに縄文人の生活の様子が展示されている。公園周囲には全長582メートルの遊歩道と、発掘調査で出土した植物の種などを基にして「縄文の森」を復元した。園内南側に木製の展望台があり、再現された「縄文の村」の様子を一望できる。また、園内の一角に水子貝塚から出土した土器などの考古資料を展示した展示館と、富士見市内のその他の遺跡から出土した考古資料を収めた資料館が設けられている。秋には園内で「縄文の森コンサート」と称したコンサートも催される。

日中戦争(1937年~1945年)

北支事変~日本軍の総攻撃~ 中国軍は北京・天津の電線切断作戦を展開した。1937年7月25日、郎坊駅で電線を修理した大日本帝国軍が休憩していると中国軍が襲撃した。日本帝国軍は修理した電線で天津の本部と連絡をとり、翌7月26日、日本軍戦闘機が中国人陣地を爆撃し、同地を日本軍が占領。日本帝国軍は宋哲元将軍に、北平城から中国29路軍37師を撤退させることで誠意をみせてほしい、もし要請に応じなければ日本帝国軍は大日本帝国にとって適切な行動をとると最後通告を行ったが、中国側は応じなかった。

クリミア戦争(1853年~1856年)

 戦闘の経緯~バルカンでの戦闘~ 1853年7月、ロシアはオスマン帝国の宗主権の下で自治を認められていたモルダヴィア、ワラキアに進軍した。あくまでも解放を目的としていたことからロシア側は宣戦布告なしに行ったが、戦闘になることを回避したいオスマン帝国側はドナウ川南岸に軍を進めたものの、再三にわたって撤退勧告を繰り返すにとどめた。しかし、9月に最後通牒も無視されたことから、オスマン帝国軍は10月に宣戦布告なしにドナウを渡河し、ブカレスト郊外の数箇所の前哨拠点を攻撃したことをきっかけに開戦となった。

名誉革命(1688年~1689年)

無血革命~イングランド上陸~ 10月30日にウィレム3世はオランダにメアリーを残しオランダ軍2万を率いて出港したが、嵐のため翌10月31日に一旦引き返した。11月11日に再度出港、11月15日にイングランド西部のデヴォン海岸に上陸、11月17日に宣言文を配布して国民に広く主張を訴えた。これらの事実を知ったジェームズ2世は議会に譲歩を示したが、既に手遅れだった。

十字軍(1095年~1272年)

十字軍遠征までの経緯 トルコ人のイスラム王朝であるセルジューク朝にアナトリア半島を占領された東ローマ帝国皇帝アレクシオス1世コムネノスが、ローマ教皇ウルバヌス2世に救援を依頼したことが発端。このとき、大義名分として異教徒イスラム教国からの聖地エルサレムの奪還を訴えた。皇帝アレクシオスが要請したのは東ローマ帝国への傭兵の提供であり、十字軍のような独自の軍団ではなかった。